20代のころ、旅する自分の背中を押してくれた『婦人公論』の「ノンフィクション募集」。荻田泰永さんと河野通和さんの対談から蘇った記憶。

冒険家の荻田泰永さんが主催する「冒険クロストーク」で荻田さんと河野通和さんの対談を見た。河野さんは『婦人公論』『中央公論』『考える人』などの編集長を歴任された編集者。対談では、河野さんの青年期、編集、野坂昭如、婦人公論、本、冒険、考えるとは…、興味ある話題ばかりで、3時間半という長さながら、飽きる所がなかった。

感想はとてもたくさんあるのだけれど、自分にとって特に大きかったのは、ずっと忘れていたかつての記憶がふと蘇ったこと。それは河野さんが編集長をされていた『婦人公論』のことである。

僕は長い旅に出る前の2002年ごろ、ライターとして一つでも実績を作るために、いくつかの雑誌の賞に、手探りで書いたルポを 送ったりしていた(当時はネットで書くという選択肢はほとんどなく、ライターになるためには紙の雑誌に書く場を見つけなければならなかった)。そのため当時、本屋に行ってはいろんな雑誌を見たり買ったりしていたのだが、 その中で確か知る限り『婦人公論』にだけ、「読者体験記・ノンフィクションを随時募集しています」といった記載があった。

河野さんのお話から考えると、 当時『婦人公論』はリニューアルしてすでに4年ほど経っていたことになるが(河野さんは、1998年の同誌のリニューアル時から数年の間編集長をされていたとのこと)、なんとなく自分の中に、表紙がスタイリッシュになって新しくなった雑誌という印象があり、内容も自分の感覚に近いような印象があった。加えて、ノンフィクションを募集している雑誌としても記憶に残った。

そして2003年6月、僕は結婚直後の妻とともに旅に出た。旅をしながら、なんとかライターとしての道筋を構築するために、ほとんどツテも縁もない中で、書いたものをいろんな雑誌にメールで送ったりしていたが、送る先はほとんど、ネットで見つけたinfo@出版社名.co.jpとかwebmaster@出版社名.co.jp的なアドレスだった。当然返事は期待できなそうな中、『婦人公論』だけは、原稿を募集しているし、でも旅の話なんてお門違いかなあとか…、いろいろ思いながらも、堂々と送ってもよさそうな媒体だった。そして旅のことだったか、取材したことだったかを、オーストラリアからだったか、東ティモールからだったか、送ったのだった。

すると思いがけずご丁寧な返事が届いた。原稿の掲載は難しいという内容だったものの、読んで返事を下さったことがとても嬉しく、 それからまた別なのを送って、また返事をもらい、 ということにつながった。結局原稿が掲載されることはなかったものの、やり取りができたことに背中を押された。その後、5年にわたった旅の日々の最初の時期、つまり、ライターとして全く仕事になっていなかった時代に、投げ出すことなくなんとか書き続けていくための原動力の一つに、『婦人公論』から届いたメールは確かになっていた。その時に送った原稿は、『遊牧夫婦』の元型の一部になっていると思う。

その時、お返事をくださった編集者はTさんで、 いま、中公新書の編集長をされている。旅を終えて日本に帰ってから、 お会いしに行ったり、やり取りさせていただいたり、 ということにつながっていった。

そして、Tさんとのつながりから、旅の終盤、2007年~08年、ユーラシアを横断している最中には、『中央公論』のグラビアページに、 写真と短い文章を2度掲載していただいたが(中国西部で出会ったイスラム教徒たちの姿と、スイスの亡命チベット人の僧侶の姿)、その時の編集長はおそらく河野さんだったことを知り、思わぬご縁を感じるのだった(河野さんとはその後、氏が『考える人』の編集長をされていた時に同誌で連載をする機会をいただいたりして、以来いろいろとお世話になっています)。

いずれにしても、当時の『婦人公論』の、 「読者体験記・ノンフィクションを随時募集しています」 という記載は、先行きが見えなかった自分にとって、 一つの目標となるような、数少ない希望になっていた。また、ライター経験はほとんどなく、海外で旅をしながらメールで文章を送ってきた若者にお返事をくださったTさんにすごく励まされたことはいまもよく覚えているし、本当にありがたかった。 そういう意味で、『婦人公論』には助けられた感覚があり、いまもなんとなく身近であり続けている。原稿を書いたことは今なおないのだけれど。そして同誌のサイトを見たら、同様の「ノンフィクション募集」の記載がいまもあり、嬉しくなった。

『婦人公論』のことを書いていたら、また別の形で背中を押してもらった媒体がいくつかあることを思い出した。その編集者の方たちが下さった一本のメールが、いまの自分へとつながっているんだなあと改めて思った。

                   *

下の写真は、旅出してから間もないころ、オーストラリア東部のカウラという町で、日本人捕虜暴動事件について取材らしきことをしていて、地元の新聞社を訪ね、事件の関係者を探しているといったら載せてくれた記事(Cowra Guardian, July 4, 2003)。急にこの記事のことも思い出し、探したら出てきた。

10日前に日本を出たところ、と記事に。一番の連絡先が滞在していた安ホテルの電話番号になっているのがすごい。メールアドレスも載せてもらっているけれど。当時は携帯電話も持ってなかったし、メールより電話だった時代なような。
『婦人公論』に送った原稿にも、この事件のことを書いた部分があったような…。

吃音「治療」の歴史 『吃音 伝えられないもどかしさ』第2章より

吃音「治療」の歴史について、近年の流れをざっと読めるサイトはあまりないように思ったので、拙著『吃音 つたえられないもどかしさ』から該当箇所を以下にアップしました。第二章の冒頭部分になります。2019年に刊行した本なので、現在の最新の治療など情報はありませんが、これまでの流れなどを知るのに参考にしていただければと思います(以下の文章は2021年に刊行した文庫版。2019年の単行本版から微修正あり)

治療と解明への歴史


一九二三年九月、関東大震災のどさくさの中、社会運動家の大杉栄は殺された。東京の憲兵隊本部にて、陸軍憲兵隊大尉甘粕正彦に絞殺されたのだと言われている。アナーキストとしてひるむことなく自らの主張を活動に移す大杉は、当時の政府や軍部にとってそれほどの脅威だった。

その大杉を特徴づけるものの一つが、吃音だった。社会主義者の山川均はこう記す。

《大杉君は非常に吃った。ことにカキクケコの発音をするときには、あの大きな眼をパチクリさせ、金魚が麩を吸うような口つきをした》

この文を含む追悼文集『新編 大杉栄追想』(土曜社刊)を読むと、山川を含む寄稿者一六人のうち半分以上が、大杉の吃音について触れている。大杉自身も『獄中記』の中で、二年以上の刑務所生活を送ったあとにどもりが急にひどくなったことを書いている。《その後まる一カ月くらいはほとんど筆談で通した》というほどだった。

大杉は、吃音を自分とは切り離せない「癖」として、特に隠そうともしなかった。だがその一方で、吃音を治すべく吃音矯正所に通っていた。

大杉が通った「楽石社」という矯正所は、教育家・伊沢修二によって東京の小石川に設立され、本格的に吃音矯正に取り組んだ日本で最初の施設として知られている。伊沢は、明治大正期において、特に音楽教育の分野で影響力を持った人物である。彼は、日本語や英語の発音の矯正法を探っていく中で、吃音の矯正にも興味をもち、研究を重ねた。

「吃音は、どもる人をまねることなどで身に付いてしまうただの習慣である」

伊沢はそう捉えていた。だから基本的には必ず治る、と。楽石社が創立された一九〇三年から伊沢が没する一九一七年までの間に、彼の方法で五〇〇〇人以上が吃音を「全治させた」とする記録もある。しかしその数字は、決して鵜呑みできるものではない。治ったといってもしばらくすると元に戻ったとも言われるし、大杉も最後まで吃音を治せていないのだ。

吃音とは何たるかがいま以上に知られていなかったその時代において、伊沢による吃音矯正は日本で少なからぬ存在感を持っていた。しかし彼の方法が吃音治療に効果があったとは考えにくい。それは、現在その方法が全く踏襲されていないことからも明らかだろう。

楽石社を開いた伊沢が没してから間もない一九二〇年代、アメリカでも吃音の研究が本格的にスタートした。それは、実質的に世界で初めての吃音の学術的研究だと言える。その研究をリードしたのが、アイオワ大学で言語障害の問題に取り組んでいたリー・エドワード・トラヴィスだった。

当時すでに、失語症などの研究から、脳の各部位はそれぞれ異なる機能を担うこと、そして言語は一般に大脳左半球(左脳)がつかさどることが知られていた。また一九一〇年代には、ロンドンで行われた学童への大規模な調査から、吃音のある子どものかなりの割合が、元々左利きだったのを右利きに矯正された子であったという結果が導かれ、広く知られるようになっていた。そうした中でトラヴィスは、同じアイオワ大学で精神医学を研究していたサミュエル・オートンの大脳半球についての考えもヒントに、一つの仮説を提出した。それは、大脳は本来、左右半球のいずれかが優位性を持っているが、そのバランスが崩れたときに言語機能が正常に働かなくなり吃音が生じる、とするものである。左利きの子どもは大脳右半球(右脳)が優位に働いているが、それを右利きにしようとすることで大脳左半球が働きを強め、本来の左右半球のバランスが崩れるのだ、と。

この説は、「吃音の大脳半球優位説」と呼ばれるが、より直接的には、左利きを矯正すると吃音になるとする説だと言える。そのいわゆる「左利き矯正説」は、その後の研究で反証も多く挙げられ、現在では一般に否定されている。ただ、九〇年代に行われた脳機能の研究では、吃音者は一般に大脳右半球が過剰に活動しているという結果が得られ、それは、左半球に生じている言語機能の不具合を右半球が補おうとしているゆえなのではないかなどと考えられるようになった。こうした議論がなされる出発点には、トラヴィスの仮説があるようである。

また、三〇年代になると同じくアイオワ大学で吃音を研究していたウェンデル・ジョンソンが新たな仮説を打ち立てる。それは「診断起因説」と呼ばれるもので、吃音は、発育段階でまだうまく話せない子どもに、母親なり周囲の人間が、それを吃音だと捉えて注意したり意識させたりすることによって始まるのだとする説である。つまり、吃音はその人が本来持っている特性ではなく、親などによって植えつけられることで発症するという考えだ。ジョンソンがそう考えたのは、第一に彼自身の過去の経験が関係している。ジョンソン自身、重い吃音を抱えていたが、その症状は、彼が五、六歳のとき、学校の先生からの指摘をきっかけにして両親が、息子に吃音が出始めている、と考えるようになってから悪化したと彼は信じていたのである。

ジョンソンは、その仮説を裏付けるデータを集め、一九三九年には、彼の指導の下、教え子の大学院生が、後に「モンスター・スタディ」という名で呼ばれることになる悪名高い実験も実施している。まず、吃音症状のある子どもとない子ども計二二人を孤児院から集めていくつかのグループに分ける。そして、彼らの話し方について褒めたり叱責したりすることによってどんな変化が出るかを調べるというものだった。端的に言えば、つまり、吃音がない子たちに対して、症状がないにもかかわらず「あなたは吃音の兆候を示している、その話し方をやめなさい」などと数カ月にわたって注意し続けたら実際に吃音が生じると彼らは予測し、その変化を観察しようとしたのである。

この実験によって吃音のない被験者が吃音を発症することはなかったが、結果、複数の被験者が実験途中から急に話さなくなったり、不安を訴えたりするようになった。何人かは実験を境に、その後精神的に深刻な問題を抱え出したともいう。

この実験については、ジョンソン自身もその後一切公表せず、長年知られないままだったが、二〇〇一年になってアメリカの地方紙によって発見、報道されたのをきっかけに広く知られ、大きな非難にさらされた。そしてその実験から七〇年近くが経った二〇〇七年になって、被験者に対してアイオワ大学が公式に謝罪し、慰謝料を払うという結果に至っている。

ジョンソンの「診断起因説」はすでに過去のものとなった。すなわち、吃音の状態が周囲の人間や環境の影響を受けるということはいまも信じられているものの、吃音がそれだけで発症するという考え方は否定されている。

そして近年、アメリカを中心に吃音の脳科学的研究、遺伝学的研究も進んだ結果、現在では、吃音は、その人の持って生まれた素質(遺伝子)と環境の両面に関係があると考えられるようになっている。九〇年代から二〇一〇年代に行われた七件の双子研究のうち五件では、その遺伝的要因の割合は七〇%あるいは八〇%以上であるという結果になった。加えて、二〇一〇年以降には、アメリカ国立聴覚・伝達障害研究所のデニス・ドレイナらの研究によって、GNPTAB、GNPTG、NAGPA、AP4E1という四つの遺伝子の変異が一部の吃音者に特徴的に見られることがわかってきた。ドレイナらは、これらの遺伝子の変異が、発話に関係する脳の部位の神経細胞に何らかの影響を与えているのではないかと考えるが、そのメカニズムははっきりとはわかっていない。また一方、これらの変異によって吃音を発症したと推定できるのは、吃音のある人全体の一〇%強に過ぎないであろうことも研究によって示されている。吃音と遺伝子との関連については、まだ多くが謎に包まれたままである。

治すのか 受け入れるのか

日本では現在、複数の研究者や言語聴覚士、医師によって、吃音の臨床や治療法に関する研究が進められている。大学などの機関の研究者としては、前述の九州大学病院の菊池良和、国立障害者リハビリテーションセンターの森浩一や坂田善政、金沢大学の小林宏明、北里大学の原由紀、広島大学の川合紀宗、福岡教育大学の見上昌睦らが知られ、その他、各地の病院や施設の言語聴覚士も、それぞれの方法で臨床や研究にあたっている。そうして臨床の方法などに関する知見が蓄積され、効果的とされるアプローチが徐々に絞り込まれてきた。

現在、吃音の治療や改善のための方法としては、主に

・流暢性形成法(吃音の症状が出にくい話し方を習得する)
・吃音緩和法(楽にどもる方法を身に付ける)
・認知行動療法(心理面や考え方に変化を促すことで症状を緩和する)
・環境調整(職場や学校といった生活の場面での問題が軽減されるように、周囲に働きかけたりする)

がある(子ども、特に幼児の場合については第七章で別途ふれる)。その具体的な手法には様々あり、それらを組み合わせるなどして、その人に効果的な方法を探るというやり方が一般的だ。また、これらとは別に、頭の中で好ましい体験をイメージすることで吃音を改善に導く「メンタル・リハーサル法」もよく知られている。ただ、どの方法を有用とみるかには、研究者・臨床家によって違いがある。訓練によって症状に直接働きかける流暢性形成法や吃音緩和法を重視する立場もあれば、心理的な側面や周囲の環境の整備に重きを置く立場もあり、見解は分かれる。一方、吃音の原因を解明するための脳や遺伝子に関する長期的な研究は、知る限り、日本では行われていない。

若い研究者も少しずつ増え、活性化しつつはあるものの、日本の吃音研究はまだ手探りの段階にあると言える。というのも、日本の各地で研究が進められ、それらが互いに共有されるようになってからまだ日が浅いのだ。現在のような状況へと進みだしたのは、二〇〇〇年代に入ってからぐらいのことでしかない。その理由はやはり、前述の通り、吃音が長年単なる癖などとして捉えられてきた影響だろう。

 

そのように、研究らしい研究が進みだしたのも最近であり、対処法も不明な状況が続く中、吃音のある人たちのよりどころとって少なからぬ役割を果たしてきたのが、当事者が自ら集まってつくる自助団体(または当事者団体、セルフヘルプグループ)である。ここ数年、SNSの発達などにより、急激に団体の数も増えているが、その中でも、日本で長年にわたって大きな存在感を持ち続けてきたのが「言友会」(NPO法人 全国言友会連絡協議会)である。

言友会は、そのウェブサイト(二〇一八年時点)によれば、《吃音(どもること)がある人たちのセルフヘルプグループとして、1966年に設立され》、《2016年1月現在、全国各地に32の加盟団体と約800人の会員を擁している日本最大の当事者団体》であるという。基本的なスタンスは、《吃音と向き合いながら豊かに生きる》ことを目指すというもので、その基盤にあるのは、言友会の中心的存在であった伊藤伸二らが一九七六年に採択した「吃音者宣言」である。伊藤は、小学校時代から吃音に悩まされ、矯正所に通ったこともあったが治すことは叶わず、その一方、矯正所を通じて同じくどもる人たちと出会う中で吃音と向き合えるようになったという。そしてその経験から、言友会の設立を牽引し、大学でも講師として言語障害児教育に携わるなどするうちに、吃音の関係者の間で名が知られるようになっていった。

その伊藤らは、「吃音者宣言」(たいまつ社刊『吃音者宣言』所収)の中で、吃音を治そうとすることに対して否定的な立場を明確にした。《どもりを治そうとする努力は、古今東西の治療家・研究者・教育者などの協力にもかかわらず、充分にむくわれることはなかった。》《いつか治るという期待と、どもりさえ治ればすべてが解決するという自分自身への甘えから、私たちは人生の出発(たびだち)を遅らせてきた。》と。そしてさらに、こう記した。

《全国の仲間たち、どもりだからと自身をさげすむことはやめよう。どもりが治ってからの人生を夢みるより、人としての責務を怠っている自分を恥じよう。そして、どもりだからと自分の可能性を閉ざしている硬い殻を打ち破ろう。
 その第一歩として、私たちはまず自らが吃音者であること、また、どもりを持ったままの生き方を確立することを、社会にも自らにも宣言することを決意した》

吃音を治そうとするべきではない。いかに受け入れて生きていくかを考えよう。そう訴える宣言なのである。

「吃音者宣言」はさまざまな議論を呼びつつも吃音当事者の間で大きな存在感を持つようになっていった。現在の言友会では、必ずしも会員みなが「吃音者宣言」を受け入れているわけではない。だが、治すことにとらわれず、吃音者同士が出会い交流し、様々な考え方や生き方を互いに共有することで各自が自らの生き方を探っていこうという方向性は、この宣言から始まっていると言っていいだろう。

言友会は半世紀以上にわたって、吃音のある人たちにとって貴重な交流の場を作ってきた。吃音者に与えてきた影響は小さくない。と同時に、言友会の存在は、当事者たちの置かれている状況の一面を表しているとも言える。すなわち、各々が吃音とともに生きていく方法を自ら見出していくしかないということだ。出口も治療法も、ないのだから――。

しかし、本当にそうなのだろうか。治す方法はないのだろうか。

(続く)

以降、書籍では、吃音の治療にかける言語聴覚士と当事者たちの物語が深まっていきます。

もしご興味持っていただけたら、本書を手に取っていただければ幸いです。現在、文庫版は品切れ重版未定となってしまったので、お求めの場合は、単行本をぜひ。こちらは書店でも入手できますし、このサイトからもご購入いただけます。詳しくはこちらへどうぞ。

2月3日(土)18時半~ 名古屋市のカフェこねっこ(Book Cafe Co-Necco)でともに話す会をやっていただけることに

もう明日ですが、名古屋市にあるカフェこねっこで、自分と一緒に飲んでお話をする会というのを開いてくださることになりました。カフェこねっこは、発達障害などの障害を持つ方の居場所に、というコンセプトで開かれたカフェで、拙著『吃音 伝えられないもどかしさ』にも登場します。こねっこが今年10周年とのことで(おめでとうございます!)、10周年企画第一弾として現在、僕の本の特集をやってくださっています。たまたま明日2月3日に、機会があって訪れることになったので、いっしょに飲んでお話しする会を、ということになりました。
18時30分~、会費2000円くらいで、アルコール・ソフトドリンク、軽い食事は用意してくださるとのことです。
もしご興味ある方いらっしゃったら、お気軽にご参加ください!僕自身、何を話せるというわけでもないですが、集まってくださる方とともに、ただゆるく気軽な時間を過ごせたらと思ってます。楽しみにしています。

カフェこねっこ
https://co-necco.xii.jp/

自著をお送りするので、その代金+アルファを被災地支援に各自募金のお願い

チーム・パスカルの仲間である小説家・ライターの寒竹泉美さんが

<ZOOMで「インタビューライター入門講座」、受講料は被災地支援に各自募金(金額・寄付先はお任せ)>

ということをやっていて、とてもいいアイディアだなと、発想に共感しました。詳細を知って、能登半島地震の被災地への支援の輪が広がっていきそうな方法だなあと思いました。

そこで自分も、支援の輪を広げるために、何かそのような方法で被災地支援ができないかと考えました。自分の場合、すぐに講座をというのが現状なかなか簡単ではないため、思いついたのが自著を使って支援ができたら、ということでした。そこで、以下のいずれかの自著・共著を、ご希望の方にお送りします。その代金を自分に払ってもらう代わりに、ご自身でここぞと思える団体・組織に、本の代金+αを、被災地支援として寄付していただければ嬉しいです(金額はお任せします)。

また、支援の輪を広げたり、さまざまな寄付先の認知が広がるように、可能であれば、ご自身のSNSなどで寄付先を共有していただければ幸いです(その際に自著の宣伝みたいになってしまうのは本意ではないので、本のことは書いていただかなくて結構です)。

<対象の本>

『吃音 伝えられないもどかしさ』(単行本)1650円

『いたみを抱えた人の話を聞く』1870円

いずれか、ご希望の本をご指定の上、メール(ykon★wc4.so-net.ne.jp ★=@)や旧Twitter(@ykoncanberra)のDM、Instagram(kondo7888)のDMなどで、ご連絡ください。差し支えないお送り先を教えていただければ幸いです。

この2つの本を選んだのには自分なりに意図があります。

災害が起きて、避難所で生活をしたりする中で、いろんな人とその場でコミュニケーションを取らなければならなかったり、また電話をしなければならないとなったとき、吃音のある人には少なからぬ心理的負荷になりえます。普段とは違う状況下で、普段あまり関わりのない人に、何かを伝えたり尋ねたりしなければならないことは、かつて自分はとても苦手で、大きな心理的負荷がかかりました。結果として、尋ねることを断念して自分でなんとかする、ということもよくやりました(例:名前を言うということが難しかったため、自分の名前を言わないといけない場は必要であっても断念するとか、旅中、トイレの場所を聞くことができずに激しく我慢した、などなど)。

しかし緊急時はそうは言っていられないことも多いだろうと想像できます。その上、すぐに伝えなければならなかったり、即座に返答を求められたり、その場で名前を言わないといけないようなこともあるのではないかと思います。または、ご自身の生活のために必要なことを、話すことを回避するために断念してしまうということにもつながりかねません。そういう時に、相手が吃音のことを少しでも知っていてくれたら、気持ちが楽になり、話したり必要な行動を取ったりもしやすくなるし、また吃音当事者と向き合う人も、状況が理解できれば、不可解に思ったりせずに済むはずです。

『吃音 伝えられないもどかしさ』をお送りすると表明し、このページを読んでもらったりすることが、吃音当事者が被災地の現場でそうした問題を抱えている可能性があるということを意識してもらうきっかけになったら嬉しく思います。また、吃音以外でも、一見わかりにくい障害や問題を抱える方たちが、さまざまな困難を抱えている可能性を想像してもらうきっかけになったら幸いです。

また、『いたみを抱えた人の話を聞く』については、いま被災地に、想像を絶するいたみを抱えた人たちが数多くいらっしゃること、そしてそういう方たちの話を聞くということがこれからきっと重要になっていくということに、少しでも広く意識が向けられるきっかけになったらと思いました。この分野については、自分は専門的に語れる立場にないため、何も言うことはできませんが、共著者の緩和ケア医・岸本寛史さんの言葉はきっと、困難な状況下にある方たちの話を聞く上でのヒントになるように思います。

自分の貧弱な資金力では、どれだけの数のご希望に対応できるか現状わかりませんが、とりあえずご希望の方がいらっしゃったらお気軽にご連絡ください。

とても微力ですが、被災地支援の輪を広げることに少しでも役立てることを願っています。そして、被災地で困難な状況にあるみなさんの状況が一日でも早く改善されることを願っています。

『君たちはどう生きるか』と『心に太陽を持て』

年明け最初に読了した本は『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎著)になりました。

この本は、子どものころ全く本を読まなかった自分に、ある時(おそらく小学生のとき)祖母が「読んでみたら」と岩波文庫版を買ってきてくれたのをきっかけに読んだものでした。おそらく自分が初めて最後まで読み通した本だったように記憶しています。

先日、宮崎駿の映画『君たちはどう生きるか』を子どもたちとともに見にいったのをきっかけに久々に本書を読みたくなり、子どもたちも読むのではと思い買って、結局いまのところ自分だけが読んだ、という状況です。

90年近く前に書かれた本なので、さすがに現在と価値観の違いを感じる部分はあるものの、人としてどうあるべきかという根本の部分は全然変わらないなと思い、心打たれるものがありました。近年再びブームが来て読まれるようになったのもよくわかる作品でした。

ぼくはこの本を読んだのをきっかけに、この本と深く関係する山本有三の本をいくつか読み、その中の一つが『心に太陽を持て』という短編集でした。これもずっと心に残っている素敵な作品で、この本について少し前に、「こどもの本」という雑誌に以下のようなエッセイを書いたことがありました。こちらに転載しておきます。『君たちはどう生きるか』も『心に太陽を持て』も、ずっと読まれ続けるんだろうなあ。

——————

私は小学校時代、本を全く読まない子どもでした。そんな自分に、一緒に暮らしていた祖母がある日、「読んでみたら」と一冊の本を勧めてくれました。『君たちはどう生きるか』という本でした。その内容に心を動かされた私は、その作品と強いつながりがある本としてあとがきに紹介されていた一冊を、読んでみたいと思いました。それが、山本有三著『心に太陽を持て』でした。

この本は、子どものためのよい本を作りたいと願った著者が、今から八〇年以上も前に、世界の様々な逸話を集めてまとめたものです。何かを成し遂げた人の話もあれば、困難を抱えた人々にひたすら尽くした名もなき人の話もあります。どの話も、生きる上で大切なものは何かということを優しく真っ直ぐに伝えてくれます。努力すること、思いやりを持つこと、希望を捨てないこと、公正、正直であること……。

三〇年以上ぶりに読み返してみると、驚くほど、「あ、この話」と思い出すものが多くありました。幼少期に読んだこれらの話が自分の心のどこかにずっと残り、今の自分につながっているのかもしれないと感じました。

 今の時代にはもしかすると、メッセージがきれいすぎると感じる人もいるかもしれません。でも私は、子どものころに、理想に満ちた真っ直ぐな物語を読み、それを心の中に留めておくのは大切なことだと思っています。そのような物語は、誰にとっても、複雑な現実の中を生きていく上での心の支えや人生の指針になりうると思うからです。

 この本は、多くの人の心の中にそのような形で生き続けている気がします。久々に読み直してそう感じました。そして自分にとってはこの本こそが、タイトルにある「太陽」の一つだったのかもしれないと思い、ふと胸が熱くなりました。

(「こどもの本」2020年4月号)

ーーーーーー

『吃音 伝えられないもどかしさ』の単行本をこちらからも販売します

『吃音 伝えられないもどかしさ』文庫版の「品切れ重版未定」について、このブログやSNSでお伝えしたところ(そのブログ記事はこちらです)、たくさんの方にご連絡をいただきました。気にかけてもらって嬉しかったです。ありがとうございました。いろいろなありがたいお声がけにも感謝です。とても励まされました。

そうした中、これからは単行本をもっと広く読んでもらうべく、単行本をほしいと思ってくださる方には、自分でも販売していくことにしました。

もしほしいという方がいらっしゃったら、『吃音 伝えられないもどかしさ』の単行本を、僕から直接、少し安くでお送りします。税込&送料込で1500円で大丈夫です(参考まで、定価は税込1650円)。ご希望であれば喜んでサインもします(…と、自分で書くのは気恥ずかしいですが^^;)。 

ご希望の方がいらしたら、メール(ykon★wc4.so-net.ne.jp ★=@)や旧Twitter(@ykoncanberra)のDM、Instagram(kondo7888)のDMなどで、ご連絡ください。詳細をご連絡します。また、お送り先を伺わなければなりませんが、差し支えない宛先を教えていただければ幸いです。

どうぞよろしくお願いいたします!

重松清さんによる書評もぜひ。

<頁をめくるごとに、つらかった記憶や悔しかった記憶、言葉がうまく出ないもどかしさに地団駄を踏んだ記憶がよみがえって、何度も泣いた。いい歳をして子どものように――子どもの頃の自分のために、涙をぽろぽろ流した。>

https://www.bookbang.jp/review/article/563177

とても残念なことながら、『吃音 伝えられないもどかしさ』の文庫版が――

自分としてかなりショックなことながら、『吃音 伝えられないもどかしさ』の文庫版が「品切れ重版未定」となってしまいました。事実上の絶版のような形です。

まだ3年も経っていないので、いまそんなことになるとは全く想像していなく、知った時には愕然としました。また、正直拙著の中でも、『吃音』に限ってはまさかそういうことはないだろうと思っていたのですが、皮肉なことに、自分の著書の中でこの本だけがそのような事態に陥ってしまいました。無念です。

さすがにもう少し粘ってほしかったし、他の方法はなかったものかとも思ってしまいますが、思うように売れてなかったということであり、商業出版であれば仕方なく、現実を受け入れるしかないのだろうとも思います。

数日間だいぶ沈みましたが、単行本の方はまだ生きています。今後は、これを生き延びさせるべく尽力しなければと、いまできることを考えています。

そんな状況のため、『吃音』の文庫版は、今後あらたに書店に補充されることはありません。

単行本も、決して安穏と構えていられる状態でもないようです。もし、本書にご興味を思ってくださる方がいたら、よろしければ単行本の購入を検討いただければ幸いです。

…と、なりふり構わない感じになって恐縮ですが、この本は、まだまだ果たすべき役割があるように思っています。興味ありそうな方などいらっしゃいましたら、紹介していただけたりしたら嬉しいです。

『吃音 伝えられないもどかしさ』(新潮社)、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

重松清さんによる本当にありがたい書評も、改めてこちらに。よろしければ…!

<頁をめくるごとに、つらかった記憶や悔しかった記憶、言葉がうまく出ないもどかしさに地団駄を踏んだ記憶がよみがえって、何度も泣いた。いい歳をして子どものように――子どもの頃の自分のために、涙をぽろぽろ流した。>

https://www.bookbang.jp/review/article/563177

<信州岩波講座 高校生編>「いまも自分に自信が持てない僕から、10代のみなさんへ」

12月7日、長野県須坂市の「信州岩波講座 高校生編」に呼んでいただき、同市の3校の高校生に向けてお話させていただきました。

演題は、最近の自分の気持ちそのままにしようと、

「いまも自分に自信が持てない僕から、10代のみなさんへ」

としました。

前半70分ほどはこのテーマで僕が話したのですが、後半は、代表の高校生12人が壇上に上がり、考えてきてくれた質問をその場でぶつけてくれました。

後半の質問パート、最初の問いが「すべらない話をしてほしい」というもので、あたふたして思い切りすべりましたが、困ってる友人へどう言葉をかけたらいいかや、進路のこと、旅のことなど、一人ひとりが自身の率直な問いを投げてくれました。また800人ほどがいる大きな会場の中からも手がたくさん上がり、いろんな質問をしてくれました。必ずしもうまく答えられなかったものの、それも含めて、楽しく貴重な時間となりました。

また、講演の前後に、控室の方に個人的に話に来てくれたりした子も複数いて、恋愛の相談なんかもあって、それぞれの思い悩んだりする姿に、遠い自分の高校時代を思い出しました。

前半の講演では、40代後半のおじさんが、わかったようなことを話すよりも、いまもなお10代のころとそんなに変わらず日々悩み、右往左往しているということを話した方が、聞いてもらえるのではないかと思い、そんな気持ちを前面に出しながら話しました。それでも、届いているか心もとなくもありましたが、何か一つでも心に残る言葉を伝えられていたら、と願っています。

信濃毎日新聞さんが、講演要旨と講座全体について、記事にしてくださいました(全文読むのは会員登録が必要ですが)。

講演要旨
https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2023121400146

講座全体(下写真はこの記事)
https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2023120700923

読売新聞夕刊の書評欄「ひらづみ!」の担当最終回『ナチスは「良いこと」もしたのか?』

読売新聞夕刊の書評欄「ひらづみ!」に先週、『ナチスは「良いこと」もしたのか?』(小野寺拓也、田野大輔著(岩波ブックレット))を紹介しました。記事がオンラインでも読めるようになりました。

良い本かつ重要な本だと思うので、ご興味ありましたらぜひ本書を手に取って読んでみてください。

https://www.yomiuri.co.jp/.../columns/20231204-OYT8T50037/

自分は2021年春から3年近く、この欄のノンフィクション本を担当してきましたが、今回で最後となりました。

最近になってようやくオンラインでも読めるようになったところということもあり残念ですが、長くやらせていただき、ありがたい仕事でした。「ひらづみ!」という名の通り、売れてる本から毎回自分で1冊選び、概ね隔月で17回書きました(全部載せ切れてないですが、14回目までは こちらから、紙面の画像で読めます。 読売新聞月曜夕刊 本よみうり堂 の「ひらづみ!」欄の書評コラム )。

ところで、自分は子どものころは本に全く興味が持てず、ほとんど本を読まないまま10代を終えてしまいました。

大学時代までにちゃんと読んだ本は通算10冊あるかないかというレベル。読書感想文は、一度読んだ漱石の『こころ』で中高で何度も書き、高校の時は『火垂るの墓』をアニメを見るだけで本の感想文を仕上げました。

国語は苦手で、高校入試直前の模試では、国語だけ極端に成績が悪く、確か、625人中598番で偏差値34でした(直前にかなり衝撃的な順位だったのでよく覚えています)。第一志望の高校では本番の国語で、幸運にも、古文の文章が読んだことあるもので「うおおお、助かった!」と感激したことを覚えています(それで合格できたのかも)。

大学に合格した時、真っ先に思ったことの一つが、「これでもう本とか一切読まなくていいんだ、数学や物理だけをやっていこう」ということでした。

というくらい、活字を読むのが苦手かつ縁遠かったので、いまでも本を読むのがとても遅く、我ながら残念な限りです。

そんな状態から大学時代にライターを志すようになったのにはいろいろ紆余曲折があったのですが、いずれにしても、そんなだったので、この欄の担当メンバーの一人として、定期的に書評を書く機会をいただけたことは、自分にとってもとても貴重な経験でした。

さすがに文筆業を20年以上やってきたので、いまでは、読むのが遅くとももちろんそれなりに読みますし、本っていいなあとことあるごとに感じています。ただ、本を読むことが自分にとって自然な営みにになってきたのはここ数年の気がします。

書評を書く機会は今後も他紙誌で少なからずありそうなので、また見つけたら読んでいただければ嬉しいです。

『ナチスは「良いこと」もしたのか?』書評の記事誌面↓

『遊牧夫婦 はじまりの日々』<6 Uさんの死>

毎日、TBSラジオ<朗読・斎藤工 深夜特急 オン・ザ・ロード>を聞き、深夜特急の旅を一緒にしている気分になっています。もうトルコまで来てしまった。そして聞いてる途中で本当によく、自分自身が旅をしていたころのことを思い出します。

昨日は聞きながら、自分は旅をしてなかったらどんな人生を送っていたかを想像し、その一方で、旅をするきっかけをくれた大切な友人について思い出したりしていました。

ふと懐かしくなって、『遊牧夫婦』の中でその友人の死について書いた章を読み返し、そしたら、いろんな人に友人のことを知ってもらいたくなり、その章「6 Uさんの死」をアップすることにしました。彼の死から今年で20年。自分の年齢は当時の彼と離れていくばかりだけれど、その一方で、最近、死がいろんな意味で身近になってきたゆえに、彼との距離が近づいているような気もします。

本を読んで下さった方からもっとも言及されることの多かった章の一つでもあります。よかったら是非読んでみてください。

6 Uさんの死

「八月五日に兄が亡くなりました。とても静かな顔で、まるで、眠っているようでした」

高校時代の友人からそんなメールが届いたのは、まだバンバリーでの生活を始めて間もない二〇〇三年八月十一日のことだった。

「兄」といっても、「友人の兄」としてちょっと知っているという程度の関係ではない。「兄」もまた、ぼくと同じ高校で、二つ年上のバスケ部の先輩としてぼくは彼と知り合った。そしてその後、大学で同期になったことによって、ぼくは「兄」と仲のよい友人として付き合うようになった。その彼が、日本で命を絶ったというのだった。

何の前触れもない突然の知らせで、メールを読んでぼくはとても動揺した。ワンダーインのコンピュータスペースで、驚きのあまりしばらく呆然とした。

彼は、親しい友人という以上に、明らかに自分が大学時代にもっとも影響を受けた人の一人だった。なんといっても、ぼくが何年にもわたって海外で生活しようと思ったきっかけを与えてくれたのが、まぎれもなく彼だったのだ。

その彼が、この世を去った。そのことがすんなりとは納得できないまま、ぼくは自分が知っている彼のいろんな姿をコンピュータの前で思い出していた。先輩・後輩から始まった関係で、ずっとぼくは彼を「○○さん」と呼んでいたので、以下、Uさんとする。

Uさんは、高校時代からおしゃれで都会的で大人びた雰囲気を持った、とにかくかっこいい先輩だった。そのころは部活の一先輩後輩という程度の付き合いだったが、その時代から数年がたったある日、思わぬところでぼくは彼と再会することになった。

それは、Uさんが高校を卒業してから二年以上がたっていたときのことで、ぼくはその何カ月か前――ちょうど阪神・淡路大震災が起きた直後で、地下鉄サリン事件が起きる直前の二月――に大学受験に失敗し、浪人界へ暗く静かなデビューを果たしたばかりのころである。ぼくが通っていた駿台予備校がある東京・御茶ノ水の本屋「丸善」で、ばったりと出会ったのだ。

「おお、コンドー!」

ちょっといたずら好きそうで、でもいつもながらの凛々しい笑顔と軽快な口調の彼に、ぼくは呼び止められた。黒く焼けた肌を、いますぐにでもインドに行ってしまいそうなシンプルな衣服に包んだUさんがそこにいた。彼がすでに、ある私立大学に入学していたことを知っていたぼくは、こんな浪人たちの巣窟で参考書を片手に持った彼と会うことが意外だった。あれ、どうして……? と聞くと、

「おれ、大学やめたんだよ。カンボジアに行ってアンコールワットを見てさ、すげえ衝撃を受けて、どうしても建築をやりたくなって。帰国してからすぐに大学やめてさ、いまは建築学科に入り直そうと思って、もう一度予備校に通い出したんだ」

そう言って彼は、どんよりとした浪人時代を過ごしていた自分とは全く異なる明るいエネルギーをみなぎらせながら、参考書を選んでいた。ぼくは当時、大学で物理学を真剣にやりたいと思っていたバリバリの理系男子で、旅をしたいと思ったことなど一度もなかった。だから、「カンボジアでアンコールワットを見て感動して大学をやめる」という流れ自体が、よく理解できずにいた。

しかし、とにかくかっこいい遊び人で夜の東京を駆け回っているような印象のUさんが、自分には未知の外国で本当にやりたいことに気が付いて、大きな一歩を踏み出そうとしているらしいことは、新鮮な刺激となった。

それからたまに予備校で会ったりしながら、ともに一年の浪人生活を終えた春、ぼくらは同じ大学に入学することになった。Uさんは、受験当日に会場で会ったときは、「おれは記念受験だよ」などと笑っていたが、ふたを開けてみればしっかりと合格を手にしていた。ぼくが本格的に彼とつるみ出したのは、それからのことである。

類は友を呼ぶのか、浪人は浪人を呼び、大学時代のぼくの友だちには一浪した同い年の人間が多かった。その中に、年齢的にはぼくらの二つ上をいくUさんもいた。

彼はただ年上であるという以上に、カリスマ的なかっこよさと陽気なキャラ、そして、豊富な遊びと旅の体験に裏打ちされた確固たる豪快さと幅の広さがあった。都会らしいスマートさを漂わせつつも、アジア、アフリカ、南米などを数カ月から半年の単位で旅し続けている経験をもとに、とにかく旅が面白くすばらしいものであることを、色白でもやしっ子なぼくらに全身で教えてくれた。

エチオピアからだったか、ぼくらに手紙をくれ、彼の興奮を短く伝えてくれたこともあった。また、外国にいても「ホットメール」を使えばメールを送受信できるんだよ、と教えてくれて、当時まだ、大学に行かないとメールが出せず、家で手書きのファックスを夜な夜なオーストラリアに送ったりしていた自分は、へえ、そうなのか、すごいなあ、とびっくりしたことを覚えている。

またUさんは、大学の授業にも手馴れたメリハリをよく効かせた。単位を落としそうな科目については、「試験が悪かったら、あとは政治力だよ。×○先生には菓子折りだ、がはははー」などと言って、オトナのやり方があることを見せてくれたりもするのであった。

一般教養の授業では、相対性理論だったか量子力学だったか、難しい物理学の授業を一緒に受講し、ぼくは自分が物理学を志す身なのにほとんど理解できないことをまずいなあと思っていると、Uさんは頭のよさそうな本を手に、なんとなくそれらしいことを言っている。よく聞くと、やはり彼もわかっていないのだが、それっぽい本を携えることによって、ちゃんと物理学をファッションへと昇華させる術を心得ていて、Uさん、やっぱりさすがだなあ、と笑わせてくれたりするのである。

そして一九九七年十二月、すなわち大学二年の冬、ぼくが「ストーカー」時代を成功裡に終えて、今度は楽しく前向きな旅行のためにその年最後のオーストラリアへと向かうときには、Uさんが他の友人とともに、車でぼくを成田空港まで送ってくれた。

車内にはジミヘンの曲が流れ、軽快な走りでレインボーブリッジを渡って空港に向かった。ぼくも、その数カ月前の悲愴感溢れる旅立ちとは違い、今度ばかりは楽しいオーストラリア滞在になりそうで気持ちはとても軽かった。

空港が近づいてくるとUさんは、助手席に座るぼくに言った。

「パスポート、出しとけよ」

するとその直後、空港のパーキングの入り口で係員がUさんに、「免許証を――」と言うか言わぬかのところで、Uさんはすかさずぼくのパスポートを差し出した。すると係員は、パスポートを見て、「はい、いいですよ」と通してくれた。通り過ぎると、Uさんがニヤリと笑った。

「おれ今日、免許証忘れちゃってよ。ここ、ヤバイなって思ってたんだけど、お前らに言うときっと動揺すると思って、言わなかったんだよ」

さすがUさん、とぼくは思った。たしかに、Uさんが免許証を持っていなくて空港に入れないかもしれないことを知っていたら、この係員の前でぼくは若干不自然な挙動をとっていたかもしれなかった。けれどUさんが機転を利かせてくれたおかげでそうはならず、ぼくはすんなりとこの年四度目のオーストラリアへと飛ぶことができたのだった。

いつもそんな感じで、Uさんはぼくらにはない余裕と貫禄を見せてくれた。旅で培ったワイルドさと都会的で洗練された華やかさがいい具合に調和されて染みついている人で、とにかく別格の魅力があったのだ。そんなUさんの存在はぼくらの仲間内ではとても大きく、おそらく彼がいたからこそ、長期の旅をする友人が増えていった。

ぼくが学部卒業前にアジアを旅しようと思ったのも、やはりUさんの影響が大きかった。行き先がインドになったのも、Uさんに、「どこか一カ所っていうなら、インドかな。やっぱりインドは違うよ」と言われたことが決め手となった。そのインドでの体験によってぼくは旅の魅力に激しく惹かれ、この長期の旅について考えるようになったのだ。

「旅をして生き続けることができたら、めちゃくちゃ幸せなんだけどな。でも、そうはいかねえよなあ」

牧歌的な学生時代の終わりが近づき、自分の生き方を各自が真剣に考えなければならない時期がやってくると、Uさんはそんなことをよく言った。どうやってこの社会の中で生きていくべきなのか、何が自分にとって一番いい選択なのか。そう考えるとき、Uさんの中にはいつも旅のことがあったのだと思う。彼は本当に旅が好きだったのだ。

彼の言葉を聞きながら、そんなことができたらいいよなあ、とぼくも漠然とは思ったものの、実践しようとは考えてもいなかった。だがそのときすでに、Uさんと日々接する中で、旅がいかに魅力的なもので、かつ人をたくましく育てるものなのかを、肌で感じていたことは確かだった。Uさん自身の魅力が、そのままぼくらにとっては旅の魅力と映っていたともいえるのだ。

しかし、皮肉なことに、そんなUさんを少しずつ別の方向に変えていったのもまた旅だった。いつだったか、Uさんはたしか半年ほど南米に行ったが、帰ってくると明らかに様子が変わっていたのだ。

最初はただ、旅の疲れか何かで体調が悪いだけかと思っていたが、言動がはっきりとそれまでとは違ったものになっていることにぼくらは気づいた。どうしたのだろうと、何度か尋ねたことはあったけれど、ペルーあたりでなにやら凄まじい経験をしたと言うだけで、彼は決してそれ以上詳しく話そうとはしなかった。少なくともぼくにはそうだった。

ただ明らかだったのは、Uさんが激しく厭世的になっているらしいことであった。

もともとUさんは、いまの世の中に対して旺盛な批判精神を持っている人だった。それはおそらく、簡単にいえば、旅をして世界を見て回る中で培っていったものの一つなのだろう。

その思いは、たとえばコンビニは利用しないなど、物質的で記号化した現代社会を象徴するものを避けるような形で、彼の行動の随所に表れていた。ただ以前は、そんなUさんの独特なポリシーは、常にUさん一流の明るいポップさを伴っていて、ぼくたちも「おお、Uさん、アツいなあ、こだわるなあ」、などといって笑って見ていられる陽気さとコミカルさがあった。

しかし南米への旅のあとに様子が変化してからは、その一つひとつが普通ではないシリアスさとストイックさで実践されるようになり、そこまでやらなくても、とぼくらが思うぐらいのものになっていった。彼はそれまでとは全く違うレベルで、いまの社会に対して違和感を覚えているようだった。すべてが薄っぺらく見えるいまの社会をなんとか変えないといけない、自分はこんないい加減な生き方をするわけにはいかないんだと、何かに追われ、思いつめているようにぼくには見えた。

そんなUさんが心の底に抱えている思いは、極めて真っ当で、ぼくたちにも激しく訴えるものがあった。とはいっても、誰もがあらゆることになんらかの形で妥協しながら生きていかざるをえなかったし、Uさんほどその信念をストイックに貫き、行動に移すことはぼくたちにはできなかった。

だんだんと会話がかみ合わなくなった。そしてときに非常に緊迫した言葉を発するようにもなっていった末に、すっかり大学にも姿を見せなくなってしまったのだ。

最後にUさんと話したのは、二〇〇〇年にぼくが大学院に入ったのちフィリピンに行こうとしていたときのことだったと思う。フィリピンについて何か教えてくれようとしたのか、突然電話をくれたときだった。詳細は思い出せないが、そのとき久しぶりに話したUさんは、やはり少し張り詰めた様子でぼくに何かを伝えようとしてくれていた。

その同じ年のことだったはずだ。ついに彼は外界との一切の接触を絶ってしまった。ぼくらの誰にも、Uさんに何が起こったのかはわからないままだった。

生前、彼の近況を最後に聞いたのは、それから三年後の二〇〇三年三月、東京で友人たちを招待して行ったぼくとモトコの結婚パーティーの日のことである。パーティーに来てくれたUさんの弟に、「Uさんどうしてる?」と聞くと、

「じつは兄貴、こんちゃんのパーティーに参加するって言っててね、渋谷までは一緒に来たんだよ。でも、やっぱりやめるって、帰っちゃったんだ」

その次に聞いた報告が、その五カ月後の、冒頭のメールだったのだ。

ワンダーインでの掃除の仕事を終えたあとに、そのメールを見て呆然としながら、ぼくは自分が知る彼のいくつかの姿を断片的に思い出し、もうその彼がこの世にいないんだ、ということを落ち着かない思いで繰り返し考えた。

キッチンで作ったパスタを夕食に食べたあと、ぼくはUさんの弟にすぐ返事を書き始めた。書きながらいろんなことを思い出した。「旅をしながら生きていきたい」と言っていた彼が、旅によって変わり、この世を去った。その一方、もともと旅にあまり興味もなかった自分が、彼と出会ったことをきっかけに、いま旅を生きようとオーストラリアで暮らしている。それが不思議だった。ぼくは、Uさんの弟への返事にこう書いた。

《(ぼくらの友人たちの)誰もがUさんの大胆な発想や生き方をどこかで自分と比べながら、どうやって生きていこうかって考えていたんだと思う。今現在の状況を見れば、おれはその中でもとくに、自分の生き方を考える上でUさんのことがいつも頭にあるんだと思っています。だからUさんには、言葉ではいえないような感謝の気持ちがあります。Uさんと同期で大学に入学して、ともにあの時代をすごせたことをとても幸運に思ってるし、そしてそれは、これからも間違いなく自分にとっては、とてもとても大きな財産になるんだと思っています》

人は何よりも、人との出会いによって変わっていく。そんなことを、Uさんと出会ったことによってぼくは感じるようになった。

この日、ワンダーインの部屋の中で、考えていた。Uさんから得たものを自分の身体に染み込ませて、ぼくはこの先何年になるかわからない旅生活の中で、どのような日々を送り、どのように変わっていくのだろうかと。

どんな絵も思い浮かんではこなかった。そして考え直した。想像などできないからこそ、人は旅をするのだろうと。

きっとUさんも、同じだったのだろうと思う。

(6 Uさんの死 終わり)


『遊牧夫婦 はじまりの日々』プロローグ全文

読売夕刊「ひらづみ!」23年10月30日掲載『熟達論』(為末大著、新潮社)

10月30日の読売新聞夕刊書評欄「ひらづみ!」には、為末大さんの『熟達論』(新潮社)について書きました。人が熟達していく過程をこんなに説得力ある形で言語化できるなんてすごいです、為末さん。自分が文筆の道で経てきた過程を振り返りながら、そうだったのかと納得できたことも多々ありました。背中を押され、よしやろうと思わせてくれる一冊です。

読売夕刊「ひらづみ!」23年8月21日掲載『「山上徹也」とは何者だったのか』(鈴木エイト著、講談社+α新書)

少し間が空いてしまいましたが、8月に鈴木エイトさんの『「山上徹也」とは何者だったのか』(講談社+α新書)について読売夕刊「ひらづみ!」に書きました。統一教会問題を20年以上ひとり追ってきた著者の凄みが滲む一冊。それがいかに大変なことか、自分も書く立場として想像できる部分があり、感服です。鈴木エイトさんが長年の取材・報道に対しては複数の賞を受けているのもとても納得です。

「トラヴェル・ライティング」のスクーリング授業(京都芸大通信教育部)を受講して下さった方へ

10月末に、京都芸大通信教育部で、トラヴェル・ライティングに関する2日間のスクーリング授業を行いました。その時に皆さんが書いてくださった紀行文を読み、僭越ながら若干のコメントをいま書いているところです。短い旅時間と短い執筆時間によく書いてくださったなあ……、と思うものばかりで、楽しく拝読しています。

そうした中、駆け足だった授業時間中にお伝えできなかったなあと思うことがいろいろと思い浮かんできました。蛇足かもですが、見て下さる方がいればと思い、授業の際にお伝えしたかったけれどできなかったことのいくつかをここに書いておこうと考えました。と言いつつ、もしかしたら授業で話したことと重複する部分もあるかもですが、よかったら参考にしていただければ嬉しいです。

                    *

まず、紀行文を書く上で、自分はこのような手順でやってます、ということを話しましたが、それはあくまでも自分にとっての方法で、そうやった方がいい、ということでは全くありません、ということは授業の中でもお話ししたかと思います。

自分はもともと、すらすらと文章が書けるタイプではありません。それゆえに、なんらかの手順があった方が書きやすく、長年いろいろとやっていくうちになんとなく、このような手順で書いているなあという方法ができていきました。その方法や考え方を、皆さんの参考までにお伝えした感じです。人それぞれ、どのように書くのがよいか、というのは全く違うと思うので、僕が授業でお伝えした方法や考え方の中で「なるほど、そのようにしたら書きやすい」といったことがあれば、参考にしていただければと思いますし、「いや、自分は全然別の書き方の方が書きやすい」ということであれば、ご自身の方法を優先する方がよいと思います。

ただいずれにしても、どんな文章を書く上でも、自分なりの手順や方法、あるいは型のようなものを身に付けておくことは、文章を長く書き続けていく上で大切だと思っています。それがあると、ひとまず書き出せる。たたき台ができる。するとその先に進めます。

文章が自然に湧き出てくる人にはそのような型は必要ないかもしれないなと想像しつつも、自分の場合は、そういう型がそれなりに身に付いてきたゆえに、なんとか文章を書き続けられているように思います。

一方、逆説的かもですが、いま自分としては、なんとなくてできてきた型をどうやって崩していくかということが、重要になってきています。その型にはまらない文章を書きたく、しかしそれがなかなかできず、どうすればいいのだろうかと悩んだりしています。

でも、そのように考えられるのも、ひとまず自分なりの型があるからこそだとも思います。型があるから、それを壊す、という次の道ができてくるのだろうと。そういう意味も含めて、それぞれ、ご自分の書き方、型、というものを身に付けていってほしいなと思います。

また、その際に、この人のような文章を書きたい、という自分の理想形のような書き手を持っておくことはとても大きな助けになると思います。目指すところがあると、自分が何をすべきかが見えてくるはずだからです。自分にとっては学生時代に、沢木耕太郎さんの文章に出会い、沢木さんのような文章、ノンフィクションを書きたいと心から思えたことが、大きな指針を与えてくれました。

旅に出る前には沢木さんになんとか自分の文章を読んでもらおうと手紙を書き、厚かましくも、自宅のプリンターで印刷したどこに載るあてもない文章を出版社経由でお送りし(その結果どうなったか…といったあたりは『まだ見ぬあの地へ』に書きました)、長い旅に出てからも、沢木さんの文庫本数冊(『敗れざる者たち』『紙のライオン』『檀』『彼らの流儀』『人の砂漠』あたり)をバックパックに入れて、記事を書くたびに、沢木さんの文章の構成、文体、書き出し、を参考にし、真似していました。一人で文章を書いていく上で、ほとんどそれだけが自分にとっての指針でした。

ただ、型の話と重なりますが、自立した書き手として長くやっていくためには、好きな書き手を真似るということをどこかでやめ、自分自身の書き方を身に付ける必要があります。自分はどう書いていくのか、何を軸にして書いていくのか、といったことを模索していかなければなりません。僕は、沢木さんのような作品を書きたい、という当初の思いはいまなお全く実現できてはいないけれど、少なくとも、自分なりの方法、文体というのは、いつしかなんとなく自分の中にできていったような気がしています。その過程においてやはり、この人のような文章を書きたいと思える書き手がいたことが本当にありがたかったです。そうした経験から、好きな作家・書き手を持てることは、文章を書いていく上で大切なことであり、幸せなことだと僕は考えています。
                   
20年ほど文筆業をやってきた中で強く思うのは、書く上での「技術」を身に付けることはとても大事だということです。文章はこれといった技術がなくとも書くことはできるし、こう書くのが正しいという正解もありません。むしろ技術なんてない方が、思いが伝わる場合もあるかもしれません。でも確実に、書く上での技術はある。長く書き続けようと思えば、そのような、基盤となる技術がとても重要になってくることを実感してきました。

だから大学で授業をするのであれば、自分は、自分なりにその技術の部分を伝えないといけないと思ってきました。紀行文に関して言えば、授業中にお話した自分なりの手順・型のようなものがそれにあたります。その部分を授業でお伝えして、各人がそれぞれにあった形で自分の中に取り入れてもらって、自分自身の型・方法を構築していってほしいと思っています。それが大学で学ばれる上で最も大切なことだと考えています。

しかしその一方で、技術では人の心は動かせないとも痛感してきました。やはり、人の心を動かすのは、書き手の思いであり、言葉にどれだけ気持ちを込められるかだと思います。

それはその書き手の生き方、考え方、これまでに経てきた悲しみや喜びなど、その人自身の人生が問われます。取材して書くのであれば、書かれる側の気持ちや、読む人たちの思いにも想像力を働かせられるか。また、書くことに伴う責任などを意識できるか。文章を書くということは、そういったあらゆることが問われているように思います。

文章を書くことの魅力でもあり怖いところは、そうしたその人自身の人間性のようなものが、必ずどこかに滲み出ることです。それは文章に書かれた主張そのものではなく、一文一文のちょっとした表現や語尾などに表れるもののように思います。本一冊分くらいの分量の文章を書くと、避けがたくその人自身が表れるものだと感じます。

その点をどうすればいいかは、おそらく人から学ぶことはできないし、日々を生きていく中で自分自身で作り上げていくしかありません。そしてそれだからこそ、一人ひとり、異なる人が書いたものに価値があるのだと思います。文章を書くこと自体は決して好きとは言えない自分が、それでも書きたいものがあり、書き続けてこられたのはそれゆえのようにも感じます。

技術と思い。

その両面を身に付けていくことを、大学で学ばれる中で意識していってほしいなと思っています。

……と、そんなことを、授業の中で伝えられていたら、と、みなさんの紀行文を読みながら思ったのでした。とりわけ今回、そんな気持ちをこのような文章にしようと思ったのは、こないだのトラヴェル・ライティングが、京都芸大における最後の授業だったからのようにも思います。最後の授業にお付き合いくださって、どうもありがとうございました。

少しでも、皆さんの今後につながることをお伝えできていたらと願っています!

『デオナール アジア最大最古のごみ山』(ソーミャ・ロイ著、山田美明訳、柏書房)の書評を「週刊現代」に

10/16発売の「週刊現代」に『デオナール アジア最大最古のごみ山』(ソーミャ・ロイ著、山田美明訳、柏書房)の書評を書きました。

いまこの瞬間もこのような驚くべき環境で生きる人たちがいることを生々しく突きつけられました。そして彼らが置かれた状況は決してどこか遠い世界の出来事なのではなく、いまの自分の生活とも繋がっているということを思わざるを得なかった。

『責任 ラバウルの将軍 今村均』で知った、オーシャン島での日本軍による驚愕の島民200人殺害事件。

長らく積読だった『責任 ラバウルの将軍 今村均』を、先日思い出して読み出したら想像以上に面白い。その中に、自分は全く初耳の驚愕の事件についての記述があって驚かされました。太平洋のオーシャン島(現キリバスのバナバ島)で終戦直後に起きた日本軍による島民200人の殺害事件。

本書では、殺害を行った元日本兵が率直にその背景を語っています。

この島を日本が占領した時、島民2500人のうち屈強な男性200人だけを残してあとは他の島に移住させた。その200人には武器を与えて訓練し、良好な関係を結んできたのに、1945年8月、終戦の4,5日後に全員を銃殺したのだと。理由は、占領当時に島にいた宣教師など数人の白人を処刑したことが発覚するのを恐れたためというのです。

白人の処刑については200人の誰もが知っていたとのこと。だから、敗戦となって連合国軍が島にやって来た時にとても隠し通せないだろうから、全員殺してしまったのだと…。島民の殺害についてはその後ラバウルでの戦犯裁判で明らかになり、8人の日本兵が処刑されたけれど、白人殺害を隠すための集団殺害だったというのは裁判でも隠されたまま、資料にも一切残ってないようでした。

実際このオーシャン島の島民殺害事件についてはその後も全然知られていないのではないかと思って、調べたら、1年前の東京新聞にこんな記事がありました。
最後の指揮官命令は島民の虐殺だった…元日本兵が書き残した敗戦直後のオーシャン島で起きたこと
いまなお、やはり全然知られてない事件なのだなと改めて驚かされました。

角田房子著『責任 ラバウルの将軍 今村均』は1985年ごろに刊行されていて、当時、関係者の多くが存命で、こういう話を当事者に取材で直接聞いています。この島民殺害事件を語った元日本兵も当時まだ60代。生々しさがすごいです。また、今村均の人格者ぶりもとてもリアルに描かれてて説得力があります。ラバウルの戦犯裁判のいい加減さ、無実の罪で処刑された日本兵がかなりの数いたのだろうことも伝わってきます。

もっと広く知られるべき内容が多々あり(自分が知らないだけかもですが)、本としてもすごく面白いです。


『10代のうちに考えておきたい「なぜ?」「どうして?」』(岩波ジュニアスタートブックス)が重版に。

今年2月に刊行した

『10代のうちに考えておきたい「なぜ?」「どうして?」』(岩波ジュニアスタートブックス)

が重版になりました。

ネットで売れている気配はほとんど感じられず、書店でリアルで見かけたことも実は1回しかなく(笑、↓の写真。8月末の紀伊国屋書店 梅田本店さん。ありがとうございます)、でも担当編集者は、順調に売れているといつもおっしゃってくださっていて、いったいどこでどう売れているのだろう、、と謎だったのですが、重版になり、ようやく、手にとって下さってる方が少なからずいることを実感できました。読んで下さったみなさま、感謝です。

嬉しい感想は随時いただいており、それなりに読んでよかったと思っていただけるものにはなっているのではないかと思っています…。よかったら以下リンクより、「はじめに」と目次だけでも読んでいただけたらありがたいです。
「はじめに」と目次と「どうして男の人は子どもを産めないんですか?」

また、同世代に多い受験生の親御さん向けにアピールさせていただくと、中学受験の大手塾の模擬試験にも出題してもらったようです。ちなみに、同じく岩波書店刊の『旅に出よう 世界にはいろんな生き方があふれてる』(岩波ジュニア新書)は、刊行から13年経ちますが、今年も、Y-SAPIXの「リベラル読解論述研究」の中1用の指定書籍となっています(入試出題もこれまでに多数)。

https://www.y-sapix.com/mypage/request-for-purchase/

重版を機に、扱っていただける書店も増えたら嬉しいです(→書店員さん、よろしくお願いします…!)

とアピール満載で失礼しますが、本が売れてくれることが切実に重要で、必死です(笑)

引き続きよろしくお願いいたします。

「シミルボン」(23年10月1日に閉鎖)掲載のコラムを再掲:『新・冒険論』(角幡唯介著、インターナショナル新書)のレビュー的コラム

「シミルボン」(shimirubon.jp)という本紹介サイトが残念ながら10月1日をもって閉鎖に。そのため、そのサイトに書いた記事が見られなくなったため、こちらに転載することにしました。それが以下、『新・冒険論』(角幡唯介著、インターナショナル新書)のレビュー的コラムです。角幡さんは、冒険家・ノンフィクション作家として、自分の世代のトップランナー。彼の「脱システム」という概念には、ぼく自身とても影響を受けています。このコラムを読んで興味持ってもらえたら是非本を読んでみてください。


<「脱システム」が必要なのは、冒険するものだけではない>

 角幡唯介氏は、太陽の昇らない冬の北極圏や隔絶されたチベット奥地の峡谷など、世界各地の極限の環境の中で壮絶な冒険を行い、それを優れたノンフィクション作品として世に問うてきた作家、探検家である。その彼の深い経験と思索の末にたどりついた、冒険についての論考をまとめたのが本書『新・冒険論』である。

 冒険にとって何よりも重要な要素は「脱システム」である、というのが本書の主旨だ。すなわち、現代社会に出来上がった複雑で重層的なシステム――様々な科学技術、そしてそれによって形成された私たちの“常識”や“倫理”に覆われた世界――からいかに抜け出し、未知で混沌とした領域に飛び出すか、であると。 

 角幡氏は、記録に残る冒険のうち最大の偉業は、19世紀末のナンセンの北極海漂流横断だとする。シベリアから海流に乗れば北極点を経由してグリーンランドに行けるはずだとナンセンは考え、実際に船に乗って漂流した。そして驚くべきことに、彼とその相棒のヨハンセンは、途中で氷に囲まれてしまった船を降りて、氷上を歩いて北極点を目指したのだ。一度降りればもう二度と船には戻れないことを覚悟の上で、だ。その後、二人は奇跡的に生還するが、彼らのように、人間が作り上げたシステムの外に文字通り飛び出して、何が起きるかは全く予想できない環境に身を置いて未知の世界へと入っていくことこそが冒険の本質であり意義なのだと著者は言う。冒険者は、そうしてシステムの外に出ることで新たな世界を切り開く。さらに、システムの外からシステム内を見ることで、システム内にいては決して得られない独自の視点で社会を批評することができるのだと。

 しかし現代は、地理的に未知の空間などほとんどなくなってしまった上、地球全体が科学技術に覆いつくされている。その状況の中で、ナンセンのように完全に他と隔絶された領域に身を置くのは、現実的にも、また、現代人の意識としても不可能になったと言える。それどころか現代では、冒険の性質を根本から変えてしまうGPSや衛星電話の使用が当然のこととされ、危険な状況になれば救助を呼ぶことも厭わないのが普通となった。その結果、いまでは“冒険”と呼ばれる多くの行為が、管理されたシステムの中で行われるスポーツと化していると著者は説く。そういう時代ゆえに、冒険する人間が「脱システム」することを強く意識しなければ、冒険そのものが消滅してしまうということだろう。そして角幡氏自身はもちろん、脱システムすることを希求して、極夜(一日中太陽が昇らない)の北極圏を3ヵ月近く放浪するというかつて例を見ない冒険を行ったのである(その全貌は『極夜行』(文藝春秋)として刊行されている)。                                                           
 一方、角幡氏の言う、脱システムすることの意義は、冒険という分野を超えて、現代社会で生きる私たちの誰もに関係していることにも思える。私たち現代人の生は、社会の細部まで張り巡らされた巨大なシステムの中で、自分たちの意思とは関係なく進むものになりつつあるからだ。
 
 私は現在、大学で講義を持っているが、学生たちと接する中で強くそう感じるようになっている。学生たちは、立ち止まって自分の生き方についてじっくりと考えたいと思っても、インターンだ就活だと決められたイベントを次々に突き付けられる。そしてそのためにいまはこれをやりなさい、いまから手をうっておかないとやばいです、生き残れません、というような外からの声も大量に聞こえてくる。自然と、その流れに従うように促される。その流れはあまりにも強大なため、就活をして就職する、というのではない道を選びたいという気持ちがあっても、よほど強い意志がなければ、流れを抜け出してシステムに依存しない生き方をすることが難しくなっているように思うのだ。それはまさに、角幡氏が言う、冒険がスポーツ化していく過程と同じではないかと私は感じている。

 ちなみに私自身が学生だった20年前は、就職活動(当時は“就活”という言葉もまだそれほど一般的ではなかった)など自分が動かなければ大学が何を言ってくるわけでもなかった。そういう意味では、現在と比べると、人生がとても本人にゆだねられていたように思う。ライターとして長いノンフィクション的な文章を書きたいと思っていた私は、就職をせずにライター修行を兼ねた長旅に出るという選択をし、結果、5年半にわたって各国を旅しながら文章を書いて生きてきた。決して大胆ではない自分でもそういう選択ができたのは、就職への圧力がいまほど強くなかったゆえだろうとも、振り返ると感じるのだ。
 
 つまり当時は、生きたいように生きるという道を選ぶことが、意識の上ではいまよりも簡単だった。いまは、技術的には可能なことが当時に比べて圧倒的に多いゆえに、自分はこう生きるんだという明確な意志がある人にとってはおそらく可能性はより大きく広がっている。しかし、ちょっと立ち止まって考えたい人、どうしようかと悩んでいる人にとっては、辛い時代になっているようにも思う。自分はこうやって生きたいんだと考え、決断し、行動する隙や時間を与えてもらえず、ものすごい勢いの流れの中で、なんとか溺れないようについていくのにみな必死、という印象を受けるのだ。
 
 生きるとは、決してただシステムに従うことではない。
 
 本来生き方は無数にあるし、一人ひとり違っていて当然である。システムに従った方が楽ではあり、脱システムすることには、ナンセンの冒険のような厳しさがある。しかしそれでも、脱システムすることには代えがたい意義と魅力があることを角幡氏は教えてくれる。
 
 脱システムという概念は、冒険を志すもののみならず、現代を生きる誰にとっても重要性を増しているように思う。本書を、これから社会に出ようとする若い世代の人たちに特に薦めたい。

京都芸大でのスクーリングを今年度で終えるにあたって、来年以降の計画として考えていること

この土日は、京都芸術大学通信教育部のスクーリングの講義だった。6,7年くらいやってるインタビューの授業で、2日間の間に、学生同士で互いにインタビューしてもらい、それを文章にするところまでをやってもらう内容。

自分が考えた内容ながら、学生さんたちにとってはタイトな時間の中でやることが多くて大変だろうなと思うものの、終わって、満足して下さった方が多かった様子が伝わってきて、とても嬉しかった。

ここ数年は、インタビューに関して自分が伝えたいこと、伝えるべきこともしっかりと確立してきた感じがあって、その意味では、ある程度自信を持って話せるようになった気もする(いつも緊張しているのだけれど)。試験後、一人の方の提案で、残っていた人で集合写真を撮る展開に。ああ、よかったなと思った瞬間。ご提案感謝です。

やはり対面でインタラクティブにやる授業は充実感があるなあと思う。学生さんたちの充実感もオンラインとは全然違う感じがするし、通信の学生さん同士が互いにつながる貴重な機会でもある。だから京都芸大で来年度から対面のスクーリングがなくなり全部オンラインになるというのは自分としては何とも残念。全部オンラインで受けられるという選択肢があるのはいいことだと思うけれど、対面のスクーリングという選択肢もやはりあった方がよいのではないかといまなお強く思う。

対面がなくなる今年度で、自分の授業も終わり。あとは今月末のトラヴェル・ライティングを残すのみ。自分がやってきたスクーリングの授業は、インタビューのと、トラヴェル・ライティングの2つで、特にみなで実際に”小旅行”(というか近年は、時間が短くなって数時間の京都散策しかできないけれど)して、それを文章にする後者のスクーリングは、オンラインでは不可能なので終わるのも納得。

というわけで、通学の学生を教えてた時期から含めると10数年にわたった京都芸術大学(「京都造形芸術大学」の名称の方がいまもなじみがあるけれど)で教えるのは、今月でひとまずおしまいに。

いま思うと、3日間のスクーリングができた時代(ここ数年は、すべて土日の2日間になった)のトラヴェル・ライティングの授業は特に、自画自賛するようで恐縮ですが、参加者の多くがいつもすごく満足して下さった印象で、自分もいつもすごく充実感があった。

参加者は毎年10人程度で、1日目にみなで小旅行(→朝から一日、琵琶湖の竹生島や長浜に行って帰ってくるので、これは実際に”小旅行感”はあった)して、2日目、3日目で授業&紀行文を執筆してもらうという内容。

3日目はたいてい数時間、書いたものを互いにシェアしてみなで円になって意見を言い合い、ディスカッションした。その時間がいつも盛り上がり、有意義だったように思う。その時間を経て、さらに書き直してもらって後日提出してもらっていた 。

この形式の授業は毎年、3日間で受講者同士の交流も深まり、いい人間関係が生まれ、最後はみな名残惜しい様子で、終了していった印象。この授業を機に、学内の文芸サークルも誕生し、いまもこの授業のことを思い出して連絡を下さる方がいてとても嬉しいです。

そんなわけで、来年から自分で、この形式の講座を復活させられないかな、と模索しています。しかし、大学の枠なしでこれをやって、果たして人が来てくれるのかなと、少々不安。というか、だいぶ不安。小心な自分はそこで躊躇してしまう。が、これから具体的に考えていきたいところです。

緩和ケア医の岸本寛史さんとの共著『いたみを抱えた人の話を聞く』(創元社)、9月7日頃発売です。

9月7日に、共著の新刊が発売になります。『いたみを抱えた人の話を聞く』というタイトルで創元社から。共著者は緩和ケア医の岸本寛史さん(静岡県立総合病院 緩和医療科部長)です。

岸本先生はがんを専門とする医師であるとともに臨床心理を学び、多くの患者さんの話を聞き、見送ってこられた方です。とても素晴らしい先生で、お会いするたびにその思いを強め、考え方や生きる姿勢に共感を覚えました。この本は、そんな岸本先生が、タイトルのテーマについて語る言葉を、自分が聞き手となり、綴ったものです。

創元社の内貴麻美さんがこの本を企画・編集してくださり、装丁は納谷衣美さんが担当してくださいました。本の中身と外観がとてもよく合っていると感じます。

40代後半になり、自分自身いろんな意味で、いたみを抱える側でもあり、またいたみを抱える人の話を聞く機会も増えたように感じます。

自分はこのようなテーマを、これからもずっと書いていくのではないかとこの本を書きながら思いました。

必要とされる人にはきっと、読んでよかったと思ってるもらえる内容になっているのではないかと、願いも込めつつ、思ってます。

よろしくお願いいたします。

『終わりなき旅の終わり さらば、遊牧夫婦』(ミシマ社) プロローグ全文

『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』に続いて、シリーズ最終巻『終わりなき旅の終わり』のプロローグ全文も公開します(『遊牧夫婦』のプロローグ『中国でお尻を手術』のプロローグ)。2006年、上海に住んでいた時、中国東北部に小旅行をした際、妙な展開で北朝鮮へと国境を越えてしまった顛末についてです。久々に読み返して、自分たちのことながら、よくこんなことをしたものだと、ひやりとしました。

本書『終わりなき旅の終わり』では、ユーラシア大陸を東から西へ、次々に国境を越え、5年をこえた旅の終わりへと向かっていきます。そしてその中で思うようになりました。終わりがあるからこそ感動があるんだ。旅も人生も、と。プロローグだけでも読んでいただけたら嬉しいです。



0 プロローグ

 

 二〇〇六年十月四日午前十一時過ぎ、雲一つない青空の下、ぼくと妻のモトコは一本の橋を渡ろうとしていた。橋は、普通車が二台通れるほどの幅があり、長さは五〇〇メートルほどもありそうに見える。剥がれた欄干の赤いペンキが、橋が刻んできた時間の長さを物語る。その下には、橋の長さに見合った大きな川が穏やかに流れている。

ぼくはその橋の一端に立ち、緑の木々に包まれた対岸を望みながら、緊張感と高揚感に満たされていた。

 「あっちは北朝鮮なのか……」

 川は図們江(トゥーメンジャン)という。その両岸は中国と北朝鮮。ぼくらはいま、その橋の中国側に立ち、対岸の北朝鮮の大地に向かって歩き出そうとしていた。

 しかし、まさにその橋の上にいながらも、不思議でならなかった。いったいおれたちは、どうしてこんなところまで来ることができてしまったのだろうか。

 当時上海に住んでいたぼくらは、このとき短い日程の旅行で中国東北部を訪れていた。その際、近かった北朝鮮との国境付近にも足を延ばした。北朝鮮に行こうなどというつもりは微塵もなかったし、いきなり入国できるはずがないこともわかっていた。だから、この前日、その橋のそばにある国境の入口で車を降り、その前に立っていた門番のような職員にこう訊いたのは、ただの挨拶代りのようなものだった。

 「この国境から北朝鮮に渡ることはできるんですか?」

 しかしそのとき、全く予想もしなかった答えが返ってきたのだ。

 「可以(クゥーイー。できるよ)」

「外国人でも?」

「可以」

まさか、とぼくは思った。行けるはずがないだろう、と。しかし同時に、気持ちは一気に高揚した。もしちょっとでも北朝鮮を見ることができるのならば――。宿に帰ってモトコと一晩考えた。そして翌朝、思い切って行ってみることに決め、その場所に戻ったのだ。

「日本人ですが、ここから北朝鮮には行けますか?」

 「不可以(ブクゥーイー。行けないよ)」

前日とは別の職員が、当たり前のようにそう言った。
 やはりそうかとは思ったものの、はい、そうですかとはあきらめられない。

「昨日の職員はは行けると言われた。たった一時間、向こう側をちょっと見るだけでもかまわないから」

無理を承知でそう言ってみると、「ちょっと待て」と門番はトランシーバーでなかの人間に問い合わせた。そしてしばらくすると彼は言った。

「じゃあ、建物の中へ」

おお、ほんとに行けるのか……。通してもらえたことに驚きながら、少し興奮気味に建物の中に入っていった。そしてひと気のない建物の中をしばらく歩くと出国審査の場所に着いた。

さすがにここは厳しいだろうと思いつつ、門番に言ったのと同じことを言ってみる。すると、「じゃあ、一時間で帰ってくるんだな」と、笑ってパスポートに出国のスタンプを押してくれるではないか。橋のたもとに行くまでにさらにもう二人を説得する必要があったが、同様なゴリ押しの交渉がなぜか次々とうまくいき、気づくとぼくらは橋の目の前まで来ていたのだ。

 なんて適当な国境なんだろう。そう思った。どうして通してもらえたのか、理由はまったくわからない。しかしとにかく、あとは渡るだけという場所までぼくたちは来ることができてしまったのだ。

前日、遠くからこの橋を望んだとき、渡ることなど想像すらしなかった。あの橋の向こうにはどんな大地が広がっているのか、どんな人々が生きているのか。自分の目で確認することなど、一生ないと思っていた。しかしいま、少なくともその川の対岸にまではいけそうな状況になっていた。

 

「本当に渡っても大丈夫なのかな」

当然ながらひと気などない。風の音と自分たちの足音しか聞こえない静寂さを少し不気味に感じながら、モトコと二人、対岸に向かって歩き出した。北朝鮮側の大地の緑色と、太陽の光で薄められた空の青色は、一見、平和そのものの風景をつくり上げていた。しかしこの橋の向こうはけっしてそんな単純な場所ではないはずである。 

いきなり撃たれたりしないだろうか。そんな妄想も頭をよぎる。カメラを取り出して、さっと数枚写真を撮るとモトコが言った。

「写真撮るの、もうやめて!」

平然としていた彼女も、さすがに若干緊張しているようだった。

 しばらく行くと、橋の中間を示す赤いラインが現れた。

 「止歩」

 大きくそう書かれている。この先からは北朝鮮側になるのだろう。さらに歩くと、いよいよ橋も終わりに近づき、小さなゲートと、ポールに掲げられた北朝鮮の国旗が見えてくる。その隣の詰所には少年のような国境の番人が待っていた。自分が漠然と持っていた北朝鮮の兵士のイメージとは全然違う人のよさそうな少年だった。

 「ちょっとだけ観光しに来ました」

 中国語でぼくは言った。最初は意味がわからないようだったが、ゆっくりと何度か繰り返すと理解してくれた。そして彼は中国語でこう答えた。

 「不行(ブ・シン)」

 だめだ、と。電話で中に確認も取ってくれたが、やはりだめだという。しかし数メートル先に北朝鮮の土地を見てこのまま戻るわけにはいかない。パスポートに中国出国のスタンプがあることを示し、笑顔を振りまきながらこのままじゃ帰らないぞという意志を見せると、しばらく黙りこんだ後、突然少年は、何か意を決した顔をした。
「わかった、行きなよ」

なぜかはわからなかったが、このとき彼は自らの決断でぼくたちを通してくれたのだった。おお、ありがとう! と喜びつつも、不可解なまますべてがぼくらを北朝鮮へと導き入れているような展開に少し怖さも感じ始めた。

 そうして橋を渡り切った。ついに北朝鮮の大地へ、第一歩を踏み入れたのだ。

 

早足に奥の建物まで歩いていき、扉からなかに入った。入国審査の窓口はあるが、職員は誰もいない。入国するのを待っている中国人が数人いたので訊いてみると、昼休みだとのことだった。うろうろしていると、奥から中年の職員が登場した。

「隣の部屋で待ちなさい」

そう言われ、ソファのある応接間のような部屋に入るように促された。そこは十数畳ほどの広さの白壁のガランとした空間だったが、壁には金正日と金日成の二人が笑顔で並んで立つ大きな赤い肖像画が飾られ、こげ茶色の木の扉の上には、力強いスローガンらしき言葉が掲げてある。いよいよ北朝鮮にいるんだな。緊張感が高まった。

 「写真撮っても大丈夫かな?」

 職員が去ったあと、ビクビクしつつもさっとカメラを取り出して、肖像画や部屋の様子を座りながら撮影した。物音がするたびにびっくりした。そしてすぐにカメラをしまった。


それにしてもすべてがわからなくなってきた。なぜこんなところまで来ることができたのか。なぜ自分たちだけこんな部屋に通されたのか。いったいこれからどうなるのか。自ら無理やりここまで来てみたものの、徐々に落ち着かない気持ちになっていく。

「もう、帰ろうよ。これ以上はもう無理やろ」

モトコに言われて、そうだな、と思った。どう考えてもこの状態で正式に入国できるはずはない。来られるところまで来た気はする。十二時になると橋の中国側が一時的に閉められるとも橋を渡る前に聞いていた。それになんといっても、ぼくもモトコも、金親子が笑う静かなこの部屋の雰囲気にびびっていた。

 そのとき十一時四十五分。橋が閉まるまで十五分ある。ぼくらは金親子の部屋を出て建物を後にした。そして周囲に拡がる牧歌的な風景を眺めながら、中国に戻るべく橋の付け根まで戻っていった。そこにはやはり先の少年の番人が立っている。彼に礼を言って再び中国側に戻ろう。そう思った。

 しかし――。
 茶と緑の風景から目を離し、正面の橋を見ると、北朝鮮側のゲートが閉まっているではないか。あっ、と思った。中国側が閉まるのであればこちら側が閉まるのも予想できたはずだった。だが、なぜかそのことをぼくもモトコもまったく考えていなかった。
 それでも、少年がさっきのように笑顔で通してくれるはずだと、不安を打ち消して歩を進めると、彼がさっきとはまるで異なる真剣な形相でこう言うではないか。

 「不行(ブ・シン)」

 え? と思い、急いで彼に近づいた。

「入国できなかったんだ、中国に戻るから橋を渡らせてくれ」

彼は続けて首を振った。「不行、不行!」。だめだ、だめだ! と。そしてぼくの足が、彼が立つコンクリートの台の部分に載っているのを見ると、彼は一切の穏やかさを消してこう言ったのだ。

 「そこから降りろ。向こうに戻って待っていろ」

 柔和な雰囲気はなくなっていた。初めて、もう交渉は無理だと感じた。

 「どうしよう……」

 ただ昼休みで扉が閉まっているだけなのかもしれなかったが、まずい展開の予感もした。 どうなるんだろうと不安に思いながら、しかたなく、歩いて入国審査の建物へと戻っていった。少し待ったらあの少年兵はぼくらを通してくれるのだろうか。それとも、強引に橋を渡ってきたことが何か問題になっているのか。いま何か調べられているのかもしれない。あれこれ考えを巡らせて気持ちはますます落ち着かなくなった。

と、そんなとき。今度は、全く予想もしていない声が聞こえてきた。

 「あなたたち、日本人? なんでこんなところにいるの?!」

明らかにネイティブの日本語だった。驚いて声の主を見ると、それは一人の初老のおじさんだった。いったい誰だろう? 不思議に思いながら、早足で彼に近づき、ぼくは言った。

「こんにちは……。はい、日本人です」

訊くと彼は、仕事で北朝鮮に行くところなのだと言った。在日朝鮮人なのだと言う。それから、「で、あなたたちは?」とこちら以上に不思議そうな顔でぼくたちの素性を訊いてきた。ぼくが、自分たちは単なる旅行者であること、適当な交渉でなぜかここまで来れてしまったことを説明すると、心底驚いたようだった。

 「え、本当に? 招聘状も何もなしでここまで来れるなんて知らなかったよ。びっくりしたなあ。まさかこんなところに旅行者がいるなんて。それに、いまは日本もどこも大騒ぎなのは知ってる? 昨日北朝鮮が核実験をやるって宣言したんだよ」

え?! 今度はぼくらが驚く番だった。

 すでに書いた通り、この日は二〇〇六年十月四日だった。その前日、十月三日に北朝鮮が核実験を実施すると宣言したというのだ。僻地にいてろくにネットも見ていなかった。完全に初耳だった。まさかこのタイミングで、そんな事態になっていようとは思いもよらない。一気に緊張感が増幅した。こんな日に、わけのわからない入国未遂のようなことをしでかして、しかも国境の写真を撮っているのがばれたりしたら……。

 するとぼくの携帯が鳴った。メールだなと思って携帯を取り出そうとすると、おじさんはびっくりした顔でこっちを見た。

「いまのは携帯? まずいよ! 携帯は持ち込み禁止。中国側で預かってもらわないといけないんだよ。すぐに電源切って! カメラも隠しておいたほうがいいよ!」

そう言われてぼくはようやく気がついた。国境というものを軽く考えすぎていた……。あるいは、旅への意識があまりにも甘くなりすぎていたのかもしれない。ふと、自分たちが、よくも悪くもこの生活に慣れすぎてしまっているような気がしてきた。そして改めて時間の経過を意識した。もう三年以上になったのだ。

 

結婚直後に無職のままで、モトコと二人で日本を出たのは二〇〇三年六月のことだった。当時、ぼくは二十六歳、モトコは二十七歳。旅を暮らしにしようと心に決め、住むことと移動することを繰り返す日々を送り始めた。

オーストラリア西海岸バンバリーでイルカを見ながら半年を過ごしたあと、オンボロのバンでオーストラリア大陸を縦断し、バスや列車で東南アジアを縦断した。そして二〇〇四年の暮れに中国に着くと、雲南省の昆明で暮らしながら中国語を勉強した。その生活が一年ほどになった二〇〇六年の初頭からは上海に移り、今度は仕事中心の生活を開始した。モトコは就職活動をして食品関係の会社に就職した。一方ぼくは、自分にとって旅の大きな目的である、旅をしながらライターとして食べていけるようになることを、ようやく上海で実現できそうになっていた。

 しかし、そんな場当たり的な生活を夫婦二人で送りながらも、自分たちがそのような人生を生きていることが、つくづく不思議になることがあった。

 そもそも自分は、物理や宇宙の世界に憧れて理系に進んだ人間だ。大学に入るまでは、自分は必ず研究職的な仕事に就くだろうと考えていた。対象が宇宙になるにしろ、地球の気候変動になるにしろ、中学時代から慣れ親しんできた理科や数学を使う仕事が自分のフィールドになるだろうことは確信していた。実際大学院に至るまで、ぼくはずっと理系畑を歩いてきた。学部では宇宙や航空機について学び、大学院では北極の海氷の未来予測シミュレーションが研究テーマだったのだ。その一方で、文筆業などという仕事は、高校時代まではもっとも縁も興味もない分野のはずだった。

モトコもまた、いかにもこういう生活を好みそうなタイプではまったくない。旅が好きであったとはいえ、常識的で手堅い道をそうそう逸脱しそうもない性格であることはおそらく周囲も本人も認めるところだった。

そんな自分たちが、旅の中を生きることになり、いま、よくわからない展開で北朝鮮の入口に立って右往左往しているのだ。この三年で、モトコもぼくも、妙に大胆に無鉄砲になっていることが、このとききわめてよく実感できた。

そうはいっても、ぼくもモトコも根が小心な本質は変わらない。このときはとにかく、中国に戻ることばかりを考えていた。

 

そわそわしながらおじさんと話し、時間がたつのをひたすら待った。そうして二時間ほどが経過した。

 「そろそろ国境がまた開く時間のはずだよ。大丈夫だと思うけど、無事に中国側に戻れるといいね。何かわからないことあったら連絡くださいよ」

 そう言われ、ぼくらは礼を言って彼と別れた。たしかに橋の小さな門は開いている。少し軽くなった足取りで橋に向かって歩きながら、その周囲を見て、写真に撮れないこの景色をずっと記憶に焼きつけておかないと、と思った。

 川沿いにはきれいに整った畑がある。数百万人が餓死しているというようなニュースがまったくイメージできないほど青々とした野菜が育っているのが印象的だった。そのそばには子どもたちの姿が見えた。赤や青や白などきれいな服装をした彼らは、お互いにふざけあいながら元気に楽しそうに歩いている。
 結局、北朝鮮を見たと思えるのはこの風景だけだな、と話しながら、ぼくらは橋へと近づいた。そして、例の少年兵が今度はにこやかに通してくれるだろうと期待すると、立っていたのは別の人物だった。言葉が通じないなかでこの状況を説明するのはやっかいだなと思いながらも、彼に「北朝鮮に入国できなかったので、中国に戻ります」と中国語で言った。すると彼は、無情にも手を横に振った。

 「不行(ダメだ)」

 え? 中国に戻るんだよ、いいでしょう?
 しかし彼は態度を変えない。予想もしなかった展開に愕然としながら粘ったものの、まったく交渉の余地はなさそうだった。どうも出国のために必要な書類があるらしいのだ。

 「この状況でいったいどうすればいいってんだよ……」

意気消沈しながらまた出入国審査場へと戻っていったが、この複雑な状況を、言葉もあまり通じない相手にわかってもらえるとは思えなかった。そうだ、頼めるのは、あのおじさんしかいない。彼が入国してしまう前になんとか助けてもらわないと!
 そう思って二人で走って再びあの建物のなかへと駆け込んでいった。

 なかに戻ると、幸い、彼とその同行者の中国人らしき人物が書類を出したり荷物検査を受けたりしているところだった。お願いすると、同行者の男性が窓口で、朝鮮語でぼくらのことを説明し必要な書類をもらってくれた。教えてもらいながら必要事項を記入すると、あとは何カ所かにハンコとサインをもらうだけの状態になった。なんとか、中国帰還が見えてきた。北朝鮮へと入国するおじさんたちに礼を言って別れを告げる。そしてすぐに二階に上がりしばらく待つと、ようやくすべてのサインとハンコが手に入った。

 「やった……。もう早く出よう」

 誰かに呼び止められたりしないかとまだビクビクしていたが、今度こそ、本当に出国できるんだと確信できた。
 相変わらずの晴れ空の下で身体がぐっと軽くなる。逃げるように橋に向かうと、建物の前に止まっていたバスのなかの中国人に呼び止められた。

 「橋はバスで渡るんだ! 歩いちゃ渡れないよ」

 その言葉で、そもそも橋を歩いて渡ってきたところから何かがおかしかったらしいことに気づかされた。ボロボロのバスに乗りこんだ。橋で恐る恐る書類を渡すと先の番人が確認する。問題はなかった。

 バスは中国に向かって、バババババッと重く大きな音を立てながらゆっくりと橋を渡り始めた。たった数百メートルの橋の向こう側があまりにも遠く感じられたが、このときやっとその向こう側に戻れることが確実となった。

 「助かった……」

 国境というものが何なのか、このとき少しわかった気がした。自分たちの無知と無謀さに我ながらゾッとした。川の向こうの中国がとてつもなく遠く感じられたあの瞬間、国境の恐ろしさを肌で知った。しかし同時に、強く魅せられている自分もいた。二年前、東南アジアの国境を越えて北上を続けていたときの興奮を思い出す。そして思った。

 次々に国境を越える旅を、もう一度したい――。