「旅と生き方」に関する講義を、かれこれ13,4年、大学でやっています。
毎回テーマがあり、それに沿って映画やドキュメンタリー映像などを数十分見てもらい、それに自分の経験などを重ねて話すことで授業を構成しています。
(授業の概要についてはこちらに詳しく書いてます)
学生から<死とかが関わる話が多くて、毎回テーマが重い、、>という声があったこともあり(笑)、先週、少し趣向を変えて、「旅と出会い」というテーマにして、自分の過去の話(28年前(!)の妻との出会いの話)をして、「ビフォアサンライズ」の最初の30分くらいを見てもらいました。「偶然」がいかに人生において大きな意味を持つか、ということを伝えたく(自分たちの話を、ビフォアサンライズのジェシーとセリーヌに重ねるのは恐縮すぎるのではありますが笑)
150人前後くらいの受講者に、毎回感想を書いてもらっているのですが(その中の3,4つくらいを次回に共有)、「ビフォアサンライズ」について、<たまたま電車で出会って一緒に降りて旅をするとか、そんなことあるのかと驚いた>などといった感想がとても多くて新鮮でした。
学生たちの反応を見て、「偶然」が人生の中で果たす役割がかつてに比べてぐっと小さくなっているのだろうなあと実感。店を選ぶのでも、電車に乗るのでも、あらゆることを事前に予測したうえで行動するのが当然となっているいまの時代には、なるほど、それはそうだよなあとも思います。
だからこそ「ビフォアサンライズ」や僕の過去の話を、思っていた以上にみなが驚き、楽しみ、偶然の持つ意味を考えてくれたように思いました。学生たちにこのテーマの話をしてよかったです。
予測することができない人生の余白部分、そしてそこに入り込む偶然に身をゆだねることによって、人生は豊かに広がっていくのだろうなと改めて感じました。
ちなみに、授業をするにあたって「ビフォアサンライズ」と「ビフォアサンセット」を久々に見直して、このシリーズのすばらしさに再度打たれました。本当に名作。見てない方はぜひ!
今年も「旅と生き方」に関する講義を終えて(レポートを読んで思ったこと等)。
毎年前期に大谷大学で行っている、旅と生きることをテーマにした講義(人間学)も、今年でたぶん13年目くらいになりました。今年もようやく、レポートの採点、成績入力までを終了しました。
この講義は、旅が人生にどう影響するかということを、自分の長旅の経験や、様々な映像作品、世界情勢、歴史、文化などから語っていく内容で、毎年100人~200人くらいが受けてくれます。(講義の基本的な内容はこちらに書いています)
講義を受けて、少なからず影響を受けてくれる学生が毎年何人かはいるように感じます。ある年は、講義が終わったあとに休学してユーラシア横断の旅に出てくれた学生もいたし、行くかどうしようか迷っていた留学を、行くことに決めたと伝えてくれた学生もいました。またその他に、進路の相談や留学の相談をしに来てくれた複数の学生も含め、彼らの姿を見て、旅について考えることは、学生たちにとって大きな意味があるように感じています。
そのような中、今年度の講義のレポートを読み終えて、今年はとりわけ、いろんなことを感じてくれた学生が多かったかもしれないように思いました。
ある学生は、全然大学に行けてなかった中、たまたまこの講義をとって聴いていくうちに、いろんな生き方があっていいんだと思うようになり、背中を押され、そのうちに他の授業にも出られるようになったと書いていました。
またある学生は、姉が高校卒業後に海外の大学に進学し、そのままその国で就職して現在に至るとのことでした。その学生は、姉がどうしてそんな選択をしたのかがわからず、かつ、遠くに行ってしまったことがショックだったこともあり、姉の出国以来、かれこれ5年ほどほとんど連絡しないままだったとのこと。しかし、この講義を受けて彼女は、姉がどうして海外に行くという選択をしたのかがわかったような気がした。そして、姉にちゃんと連絡をしてみることに決めましたと書いてくれていました。
また、最近難病であることがわかったという学生は、これからどうやって生きていこうか途方に暮れる気持ちだったけれど、世界にはいろんな生き方をしている人し、いろんな生き方をしていいんだということを講義を通じて感じ、自分も自分の道を生きていけるような気がするようになった、と記してくれていました。
他にも多くの学生が、内面の深いところの変化について書いてくれました。僕の講義がまだ途中の段階で旅に出かけたくなってバイクの旅に出たという学生もいたし、夏休みに旅に出ることにしましたと書いている学生も複数いました。そして旅というテーマを通じて自分自身のこれからの生き方を真摯に考えていることが伝わってくるレポートがいくつもありました。
そんなみんなのレポートを読んで、僕自身がとても励まされました。この講義を12,3年やりながらも、なぜかいまも毎回毎回、緊張してしまうのだけれど(それは自分の性格ゆえ)、そんな緊張感を抱えつつも講義をやってきてよかったなと思いました。
一方、こんな講義をしながらも、じつは自分がいま全然旅をしていません。2020年の初頭にタイに行った直後にコロナ禍が始まったこともあり、以来海外が遠くなり、精神面や生活面でも思うようにいかないことが多くあり、気づいたらパスポートも切れてしまっていました。
そのように旅がすっかりと遠のいてしまった自分ですが、みんなのレポートを読んで、皆が旅の可能性を強く感じてくれたのを知って、自分自身もまた、短くてもいいから近いうちに旅がしたいと、いまとても強く思っています。
皆が講義に興味を持ってくれたことで、逆に自分自身がいま、旅の可能性を改めて強く感じています。
講義を聴いてくれた皆さんのこれからの人生を、陰ながら応援しています。「偶然性」と「有限性」を心に留め、そして「脱システム」を――。
「トラヴェル・ライティング」のスクーリング授業(京都芸大通信教育部)を受講して下さった方へ
10月末に、京都芸大通信教育部で、トラヴェル・ライティングに関する2日間のスクーリング授業を行いました。その時に皆さんが書いてくださった紀行文を読み、僭越ながら若干のコメントをいま書いているところです。短い旅時間と短い執筆時間によく書いてくださったなあ……、と思うものばかりで、楽しく拝読しています。
そうした中、駆け足だった授業時間中にお伝えできなかったなあと思うことがいろいろと思い浮かんできました。蛇足かもですが、見て下さる方がいればと思い、授業の際にお伝えしたかったけれどできなかったことのいくつかをここに書いておこうと考えました。と言いつつ、もしかしたら授業で話したことと重複する部分もあるかもですが、よかったら参考にしていただければ嬉しいです。
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まず、紀行文を書く上で、自分はこのような手順でやってます、ということを話しましたが、それはあくまでも自分にとっての方法で、そうやった方がいい、ということでは全くありません、ということは授業の中でもお話ししたかと思います。
自分はもともと、すらすらと文章が書けるタイプではありません。それゆえに、なんらかの手順があった方が書きやすく、長年いろいろとやっていくうちになんとなく、このような手順で書いているなあという方法ができていきました。その方法や考え方を、皆さんの参考までにお伝えした感じです。人それぞれ、どのように書くのがよいか、というのは全く違うと思うので、僕が授業でお伝えした方法や考え方の中で「なるほど、そのようにしたら書きやすい」といったことがあれば、参考にしていただければと思いますし、「いや、自分は全然別の書き方の方が書きやすい」ということであれば、ご自身の方法を優先する方がよいと思います。
ただいずれにしても、どんな文章を書く上でも、自分なりの手順や方法、あるいは型のようなものを身に付けておくことは、文章を長く書き続けていく上で大切だと思っています。それがあると、ひとまず書き出せる。たたき台ができる。するとその先に進めます。
文章が自然に湧き出てくる人にはそのような型は必要ないかもしれないなと想像しつつも、自分の場合は、そういう型がそれなりに身に付いてきたゆえに、なんとか文章を書き続けられているように思います。
一方、逆説的かもですが、いま自分としては、なんとなくてできてきた型をどうやって崩していくかということが、重要になってきています。その型にはまらない文章を書きたく、しかしそれがなかなかできず、どうすればいいのだろうかと悩んだりしています。
でも、そのように考えられるのも、ひとまず自分なりの型があるからこそだとも思います。型があるから、それを壊す、という次の道ができてくるのだろうと。そういう意味も含めて、それぞれ、ご自分の書き方、型、というものを身に付けていってほしいなと思います。
また、その際に、この人のような文章を書きたい、という自分の理想形のような書き手を持っておくことはとても大きな助けになると思います。目指すところがあると、自分が何をすべきかが見えてくるはずだからです。自分にとっては学生時代に、沢木耕太郎さんの文章に出会い、沢木さんのような文章、ノンフィクションを書きたいと心から思えたことが、大きな指針を与えてくれました。
旅に出る前には沢木さんになんとか自分の文章を読んでもらおうと手紙を書き、厚かましくも、自宅のプリンターで印刷したどこに載るあてもない文章を出版社経由でお送りし(その結果どうなったか…といったあたりは『まだ見ぬあの地へ』に書きました)、長い旅に出てからも、沢木さんの文庫本数冊(『敗れざる者たち』『紙のライオン』『檀』『彼らの流儀』『人の砂漠』あたり)をバックパックに入れて、記事を書くたびに、沢木さんの文章の構成、文体、書き出し、を参考にし、真似していました。一人で文章を書いていく上で、ほとんどそれだけが自分にとっての指針でした。
ただ、型の話と重なりますが、自立した書き手として長くやっていくためには、好きな書き手を真似るということをどこかでやめ、自分自身の書き方を身に付ける必要があります。自分はどう書いていくのか、何を軸にして書いていくのか、といったことを模索していかなければなりません。僕は、沢木さんのような作品を書きたい、という当初の思いはいまなお全く実現できてはいないけれど、少なくとも、自分なりの方法、文体というのは、いつしかなんとなく自分の中にできていったような気がしています。その過程においてやはり、この人のような文章を書きたいと思える書き手がいたことが本当にありがたかったです。そうした経験から、好きな作家・書き手を持てることは、文章を書いていく上で大切なことであり、幸せなことだと僕は考えています。
20年ほど文筆業をやってきた中で強く思うのは、書く上での「技術」を身に付けることはとても大事だということです。文章はこれといった技術がなくとも書くことはできるし、こう書くのが正しいという正解もありません。むしろ技術なんてない方が、思いが伝わる場合もあるかもしれません。でも確実に、書く上での技術はある。長く書き続けようと思えば、そのような、基盤となる技術がとても重要になってくることを実感してきました。
だから大学で授業をするのであれば、自分は、自分なりにその技術の部分を伝えないといけないと思ってきました。紀行文に関して言えば、授業中にお話した自分なりの手順・型のようなものがそれにあたります。その部分を授業でお伝えして、各人がそれぞれにあった形で自分の中に取り入れてもらって、自分自身の型・方法を構築していってほしいと思っています。それが大学で学ばれる上で最も大切なことだと考えています。
しかしその一方で、技術では人の心は動かせないとも痛感してきました。やはり、人の心を動かすのは、書き手の思いであり、言葉にどれだけ気持ちを込められるかだと思います。
それはその書き手の生き方、考え方、これまでに経てきた悲しみや喜びなど、その人自身の人生が問われます。取材して書くのであれば、書かれる側の気持ちや、読む人たちの思いにも想像力を働かせられるか。また、書くことに伴う責任などを意識できるか。文章を書くということは、そういったあらゆることが問われているように思います。
文章を書くことの魅力でもあり怖いところは、そうしたその人自身の人間性のようなものが、必ずどこかに滲み出ることです。それは文章に書かれた主張そのものではなく、一文一文のちょっとした表現や語尾などに表れるもののように思います。本一冊分くらいの分量の文章を書くと、避けがたくその人自身が表れるものだと感じます。
その点をどうすればいいかは、おそらく人から学ぶことはできないし、日々を生きていく中で自分自身で作り上げていくしかありません。そしてそれだからこそ、一人ひとり、異なる人が書いたものに価値があるのだと思います。文章を書くこと自体は決して好きとは言えない自分が、それでも書きたいものがあり、書き続けてこられたのはそれゆえのようにも感じます。
技術と思い。
その両面を身に付けていくことを、大学で学ばれる中で意識していってほしいなと思っています。
……と、そんなことを、授業の中で伝えられていたら、と、みなさんの紀行文を読みながら思ったのでした。とりわけ今回、そんな気持ちをこのような文章にしようと思ったのは、こないだのトラヴェル・ライティングが、京都芸大における最後の授業だったからのようにも思います。最後の授業にお付き合いくださって、どうもありがとうございました。
少しでも、皆さんの今後につながることをお伝えできていたらと願っています!
京都芸大でのスクーリングを今年度で終えるにあたって、来年以降の計画として考えていること
この土日は、京都芸術大学通信教育部のスクーリングの講義だった。6,7年くらいやってるインタビューの授業で、2日間の間に、学生同士で互いにインタビューしてもらい、それを文章にするところまでをやってもらう内容。
自分が考えた内容ながら、学生さんたちにとってはタイトな時間の中でやることが多くて大変だろうなと思うものの、終わって、満足して下さった方が多かった様子が伝わってきて、とても嬉しかった。
ここ数年は、インタビューに関して自分が伝えたいこと、伝えるべきこともしっかりと確立してきた感じがあって、その意味では、ある程度自信を持って話せるようになった気もする(いつも緊張しているのだけれど)。試験後、一人の方の提案で、残っていた人で集合写真を撮る展開に。ああ、よかったなと思った瞬間。ご提案感謝です。
やはり対面でインタラクティブにやる授業は充実感があるなあと思う。学生さんたちの充実感もオンラインとは全然違う感じがするし、通信の学生さん同士が互いにつながる貴重な機会でもある。だから京都芸大で来年度から対面のスクーリングがなくなり全部オンラインになるというのは自分としては何とも残念。全部オンラインで受けられるという選択肢があるのはいいことだと思うけれど、対面のスクーリングという選択肢もやはりあった方がよいのではないかといまなお強く思う。
対面がなくなる今年度で、自分の授業も終わり。あとは今月末のトラヴェル・ライティングを残すのみ。自分がやってきたスクーリングの授業は、インタビューのと、トラヴェル・ライティングの2つで、特にみなで実際に”小旅行”(というか近年は、時間が短くなって数時間の京都散策しかできないけれど)して、それを文章にする後者のスクーリングは、オンラインでは不可能なので終わるのも納得。
というわけで、通学の学生を教えてた時期から含めると10数年にわたった京都芸術大学(「京都造形芸術大学」の名称の方がいまもなじみがあるけれど)で教えるのは、今月でひとまずおしまいに。
いま思うと、3日間のスクーリングができた時代(ここ数年は、すべて土日の2日間になった)のトラヴェル・ライティングの授業は特に、自画自賛するようで恐縮ですが、参加者の多くがいつもすごく満足して下さった印象で、自分もいつもすごく充実感があった。
参加者は毎年10人程度で、1日目にみなで小旅行(→朝から一日、琵琶湖の竹生島や長浜に行って帰ってくるので、これは実際に”小旅行感”はあった)して、2日目、3日目で授業&紀行文を執筆してもらうという内容。
3日目はたいてい数時間、書いたものを互いにシェアしてみなで円になって意見を言い合い、ディスカッションした。その時間がいつも盛り上がり、有意義だったように思う。その時間を経て、さらに書き直してもらって後日提出してもらっていた 。
この形式の授業は毎年、3日間で受講者同士の交流も深まり、いい人間関係が生まれ、最後はみな名残惜しい様子で、終了していった印象。この授業を機に、学内の文芸サークルも誕生し、いまもこの授業のことを思い出して連絡を下さる方がいてとても嬉しいです。
そんなわけで、来年から自分で、この形式の講座を復活させられないかな、と模索しています。しかし、大学の枠なしでこれをやって、果たして人が来てくれるのかなと、少々不安。というか、だいぶ不安。小心な自分はそこで躊躇してしまう。が、これから具体的に考えていきたいところです。