NHKラジオ第2で、NHKカルチャーでの講座を放送。3月16日夜です。

1月に青山で行ったNHKカルチャー講座の内容が、1時間ほどに編集されて、明日16日の夜20時から、ラジオNHK第2で放送されます。

https://www.nhk.jp/p/rs/GPV3P86GMP/episode/re/ZN57QQ1XL2/

講座の費用がまあまあしたので、誰も来なかったらどうしよう…と不安な気持ちで臨んだ講座でしたが、思って以上の方に来ていただきみなさんに熱心に聴いていただけたおかげで、自分なりに充実したお話ができました。

トランプ就任前だったので、それと関連する辺りがラジオではどう編集されているかわかりませんが、演題は以下です。

旅することと生きること

ーー寛容さが失われそうな時代にーー

よろしければ。

来週再放送、オンライン配信もある感じです。

朝日新聞の言論サイト「Re:Ron」に寄稿  <「1%のリスク」と「99%のいい出会い」 旅で考えた警戒心と分断>

朝日新聞の言論サイト「Re:Ron」に寄稿しました。

「1%のリスク」と「99%のいい出会い」 旅で考えた警戒心と分断

分断が進み、信頼し合うことが難しくなりつつある今だからこそ、信頼し合うことの大切さと可能性について改めて考えたいと思い、書きました。<信頼こそが人を幸福にする>という事実は、心に留めておきたいと最近切に思います。

荻田泰永さん『君はなぜ北極を歩かないのか』読了 「旅とは、憧れだ」

冒険家の荻田泰永さんが書いた『君はなぜ北極を歩かないのか』(産業編集センター)読了。 12人のバックグラウンドの異なる若者(+写真家)を引き連れて、北極圏600キロを踏破する物語。荻田さんと若者たちが、それぞれに葛藤し、真剣にぶつかり合い助け合いながら極限の環境を歩く様子に、とても心を打たれ、気持ちを揺さぶられた。

最近、ある大学の先生が、高校生への講演の中で、「自己紹介をするときは、自分がどう相手に役に立つ存在かを伝えなければいけない。そうでなければ相手に興味を持ってもらえない」と話していた。それを聞いてものすごい違和感を持ったのだけれど、荻田さんが本書に書いている言葉の中に、まさにその逆とも言えることがあった。役に立つかや意味があるか、ではなく、「やりたい」という個人の衝動とその結果の行為自体に価値がある、社会はそれを尊重する場であるべきだ、といったことが、とても説得力のある形で書かれていて、本当にそうだなあと思った。なぜ冒険をするのか、なぜ北極へ行くのか。最後まで読んですごく腑に落ちた。

そういったことを、この極限環境の中で若者たちに全身で伝える荻田さん、それに食らいついて600キロを歩き抜いた若者たち、そして撮影しながら両者を結びつける重要な役割を果たす写真家の柏倉陽介さん、全員に圧倒された。参加者の中の4人が本書の最後に寄せている振り返りの文章もそれぞれよかった。荻田さんのあとがきにあった言葉「旅とは、憧れだ」がずっと心の中を漂っている。

興味もたれた方は是非読んでみてください。

いま、不登校についてのエッセイを書いていて

ある雑誌が不登校の特集を組むとのことで、執筆を依頼され、長らく学校にあまりいかない次女について書いている。娘のことを書くのは久しぶりで、どう書こうか考えながら、昨夜から、以前(2013年春から約7年間)娘たちについて書いていた連載の記事を読み直している。思い出してちょっと泣けてしまったり、いまの娘の姿とつながりふと心があったまったり。自分の娘のことだからなのは間違いないけど、興味持ってもらえる人もいるかもと思って、ひとまず最終回だけ貼っておきます。連載していたウェブ媒体がなくなってしまい、いまはどこにも公開されていないので、それももったいないかなと。よろしければ読んでいただけたら嬉しいです。

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積水ハウスオウンドメディア「スムフムラボ」掲載の連載記事
《劇的進行中~”夫婦の家”から”家族の家”へ》

最終回 「書くこと」は「子どもと一緒に生きること」(2020年秋ごろ掲載)

 この欄で3ヵ月に一度、成長する娘たちの姿と、父親としての自分自身について書き始めたのは、いまから7年前のことである。
 それはちょうど、今年7歳になった次女が、生まれたばかりのころだった。この連載は、その当時から現在に至るまで、2人の娘がどう成長したかを季節ごとに振り返るきっかけをつくってくれる大切な仕事であり続けたが、それが、今回で最終回となることを告げられた。

 読者の方から嬉しい感想をもらうことも時折あったし、振り返ると家族についての貴重な記録(あくまでも父親としての自分の視点からのものではあるが)にもなっていた。そして勝手にいつまでも続いていくような気持ちでもいたので、唐突に終わりがやってきたことを知り、驚き、残念に思った。ただその一方で、少しほっとした気持ちが沸いてきたのも確かだった。もしかすると、ちょうどいいころ合いなのかもしれないな、とも思ったのだ。


 長女は昨年10歳になった。今年で小学5年である。当然のことながらだんだんと自立した一人の人間らしさが増している。ほっとした、というのは、最近その長女について、自分がどこまで自由に書いていいのかという点で、だんだんと複雑な気持ちを持つようになっていたからだ。

 以前にも少し触れたが、長女は、あまり自分のことを人にさらけ出したくないタイプに見える。人前に出て目立ったりすることを好まないし、自分が考えていることを人に知られたくないと思っていそうな節もある。そうであるとすれば、やはり娘のその気持ちは、尊重しなければと思っている。

 ある程度の年齢までは、親の判断で子どもについて書いたり報告したりすることは、基本的には許されるだろう。それがいくつぐらいまでなのかは、はっきりとはわからないが、長女の様子を見る限り、小学校高学年ぐらいからは、その範疇を超えるのかもしれないなと感じている。

 そんな思いから、父親として自分が勝手に書いていい娘たちの物語はそろそろ終盤に近づいているのかもしれないと最近思うようになっていた。この連載を始めたころの気持ちを思い出せば、そのような時期がもう訪れてしまったことに驚かされ、寂しくもあるけれど、でもそれゆえに、この連載を終えなければならないと聞いたとき、それはそれでよかったのかもしれないと感じたのだ。そして自分にとってはこの連載の終了が、これから娘たちが自分自身で歩いていく様子を遠くから見守るための、一つの節目になるのかもしれないな、と思っている。

 7年間、子どもたちの幼少の時代をこのようなコラムに書き残せたのは、とても幸運なことだった。自分自身、娘たちの気持ちを想像しながら書き進めていく中で、少なからぬ発見があったし気づくことがあった。またいろんな方に読んでもらい、さまざまな感想をもらえたことも、自分の子どもとの向き合い方に影響した。つまりぼくは、3カ月ごとに子どもとの日々を振り返って文章化することで反省したり考えたりする機会を得ながら、子どもたちと生きてきたような気がするのだ。その日々を、読者の皆さんや関係者の方々に見守っていただけたことを、とてもありがたく思っている。そして今回、その最後の機会として、以下に娘たちの近況をお伝えして、連載を終えたい。


 小5の長女、そよは、背もだいぶ高くなり、妻と服を共有したりするようになっている。内面はまだまだ幼いけれど、容易に言うことをきかなくなっている様は、反抗期の到来が近いのを感じさせる。その姿に、ああ、これから大変な時期が来るのかな、と思うとともに、着実に成長しているんだなとも実感する。そんな彼女の姿を見て、なぜか時折、大人になった娘に助けられたり励まされたりする老いた自分を想像したりもしてしまうが、いや、その前に思春期の娘と対峙する、おそらく自分にとってはハードな時期がやってくる。まずはその時期を、ちょっと覚悟しながらも楽しみに待ちたいと思っている。

 一方、次女のさらは、今春、小学校に入学した。この連載にも度々書いてきた通り、彼女は保育園に行けない時期が長くあった。その上、コロナ禍によって入学直後に長い休みに入ったということもあり、スムーズに小学校生活を始められるのかが心配だった。そしてその懸念通り、6月の学校再開直後の日々は、なかなか困難なものとなった。

 行きたがらない日が続き、玄関で泣くのをなんとか学校まで連れていっても、校門の前で「中には入らへん!」と激しく抵抗したりする。ある日は、門の辺りまで迎えに来てくれた先生が「あとは任せてください」と、少し力を入れて彼女をぼくから引き離そうとすると、「むりやりはしない、っていうたやろ!」と、ものすごい力でぼくの体を叩きながら、必死な形相で泣き叫んだ。そんな娘に、無理やり先生に引き渡したり突然いなくなったりはしないという保育園時代からの約束は絶対に破らないからと改めて告げて、ぼくは彼女を教室まで連れていき、廊下から見守ったり、教室の端っこに座らせてもらって眺めたりした。

 その日、さらは休み時間ごとにぽろぽろと涙をこぼしていた。また他の日には、半日ずっとそばにいないといけなかったこともあって、これからどうなるのだろう、とそのころは思った。しかし彼女は、何日か一進一退を繰り返すうちに、慣れていったようだった。学校が始まって3週間ほど経ったころには、すっと行ってくれるようになったのだ。短い夏休みを経て、8月後半から2学期が始まると、しばらくはまた、週に一回くらいのペースで教室までついていかないといけなかったが、それもまた落ち着いた。その後も毎日のように、学校に行きたくないとは言うものの、なんとかかんとか通っている。そしてすでに10月に入った。

 このままスムーズに通い続けてくれたらいいな、と思う。でも、また行きたくないという時期が来るのも想像できるし、いずれそのような時期がやってきて本格的に行かないということになれば、その時はまた、さらの気持ちに向き合おうと思っている。いやむしろ、いまは平穏に過ごしているそよの方に、今後大変な時期がやってくるのかもしれない。ただいずれにしても、そんな時にはきっとまた、この連載に書いた文章を読み直し、どうするべきかを過去の自分に問うことになるような気がしている。

 そして願わくばこの一連の文章が、自分自身にとってのみならず、誰かにとっても、何かのきっかけでふとしたときに読み返したいと思うものになっていれば嬉しく思う(各コラムは、今後もアーカイブとしてこのサイト上に残してもらえるそうなので…!<→数年前にサイトが閉鎖に:2025年1月追記>)。


 連載の初回に書いた、長女が生まれた日は、さすがに昨日のことのようではない。しかし、10年も前とも思えない。月並みだが、本当に子どもの成長は早く、一緒にいられる期間も決してもうそんなに長くはないと感じている。それは親としては寂しいことでもあるけれど、でもいずれ、娘たちが自分たちの保護下を離れて自らの道を歩き出す日が来たときには、2人がそれぞれ、安心して前に向かっていけるように、力強く背中を押してあげられる存在でありたいと思う。彼らがどんな道をたどるのかは、いまは全くわからない。そしてその、先が全く未知であるということの素晴らしさを、40代も半ばに入ったいま、心より感じている。

 いつか娘たちがここに書いた文章を読むことがあるとしたら、彼女たちはいったい何を思うだろう。幼いころのことであるゆえに、彼女たちの記憶にもなく、「ああ、そういうことがあったのか」という感想だけで終わるのかもしれないが、もしかしたら彼女たちは、この一連の文章の中に、自分たち自身以上に、父親であるぼくの姿を見るような気もする。お父さんは自分に対してこんなことを感じていたのか、そうかあの時、こんなことを思いながら自分と接していたのか……、と。父親としてのささやかなエゴを書き記しておくとすれば、そのとき、「ああ、お父さんは、お父さんなりにいろいろ考えてくれてたんやな」などと、思ってもらえたら嬉しいな。

 また最後にもう一点付け加えておきたいが、本連載では、妻については必要以上に書かないようにした。彼女もまた、あまり書かれることを望まないからだ。それゆえに、子育てに関してなんだか自分ばかりが色々やっているように読めてしまった部分もあるかもしれないが、当然のことながらそんなことは全くない。娘たちはいつも母親にべったりだし、この一連の文章で書いた風景の隣には、常に妻の姿があるということを念のために記しておきたい。妻がいつも娘たちを気にかけ、彼女たちにさまざまな指針を示してくれることをありがたく思う。

 連載を読んでくださった皆様に、心より感謝申し上げます。長い間、ありがとうございました。それぞれの方にとって、わずかにでも記憶に残る言葉が書けたことを願いつつ。
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1月10日金曜日(19:00~20:30)にNHKカルチャーで。「人間を考える」【近藤雄生】<スズケン市民講座> ~旅に学ぶ~

今年も残りわずかな段階で、年始の告知を失礼します。

1月10日金曜(19:00~20:30)に、NHKカルチャー の講座でお話しさせていただくことになりました。~旅に学ぶ~というシリーズの中の1回として登壇します。

「人間を考える」【近藤雄生】<スズケン市民講座>

~旅に学ぶ~

https://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1298747.html

テーマが大きすぎて恐縮してしまいますが、聞いてよかったと思っていただける内容にできるように力を尽くします。

受講料は講座通じて共通の価格なようですが、自分などの講座にこの価格はチャレンジングかと…。誰もいない教室で一人で話している図がすでに思い浮かんでしまってます汗。ご興味ある方がいらっしゃったら、ぜひ来ていただければものすごく嬉しいです。

一方、学生さんは無料とのことですので、躊躇なくぜひ!笑

「旅と生き方」をテーマに長年大学の講義で話していることのエッセンスを凝縮してお伝えできたらと思っています。

申し込みは、上のリンクよりしていただけるようです。

どうぞよろしくお願いします!

自分がどんな本を読んできたかについて、京都新聞で記事にしてもらいました

今朝(12月17日)の京都新聞に、これまで読んできた本について、広瀬一隆記者に取材してもらった記事が掲載されました。若い頃、本を読まずに来てしまったけど、大学以降に読み出して、以来出会ってきた本に改めて自分が動かされてきたなあと感じます。

記事の中で触れている本は、登場順に、立花隆『宇宙からの帰還』『脳死』『田中角栄研究全記録』、遠藤周作『深い河』、沢木耕太郎『深夜特急』『敗れざる者たち』、サイモン・シン『フェルマーの最終定理』、角幡唯介『空白の五マイル』。登場する作家は、上記以外には旅中に読む機会がちょくちょくあった作家として、清水一行、村上春樹、ポール・オースター。

立花隆さんは当時大学にいらしたこともあって身近で影響を受けたし、沢木耕太郎さんは記事にもある通り、旅に出る直前に電話をくださって、それが旅中に挫けそうになってもなんとか書き続けてこられた要因の一つでもあり、深い感謝。

また、旅中に安宿に置いてある本は傾向があって、当時(2000年代半ば頃)よくあって結構読んだのが、清水一行、渡辺淳一、村上春樹作品とかだった記憶。清水一行の経済小説はよくあって、当時けっこう読んだ。渡辺淳一も。ちなみにポール・オースターは、日本語の本に出会う機会も少なくなってたヨーロッパ滞在時に原著の『ティンブクトゥ』を確かポーランド古本屋で買って読んだ。当時は英語の本でも、読めるというだけでありがたかった。スマホなかったもんなあと当時の気持ちを思い出します。

村上作品は読んだ土地となんとなく記憶が結びついていて、『ノルウェーの森』は暑かったインドネシア・バリのカフェで、『ダンス・ダンス・ダンス』はマイナス10度くらいの真冬のキルギス・ビシュケクの宿でストーブの前で、訳書の『心臓を貫かれて』はユーラシア横断初期の北京近くの町の宿で、それぞれ読んだ記憶が蘇る。

本と人生の記憶は繋がっているなあと再確認させられました。ちなみに『吃音』を書いてからは重松清さんの作品にも強く影響を受けるように。その重松さんの作品は、一年暮らした中国・雲南省昆明で『流星ワゴン』を読んで心打たれたのを思い出します。

広瀬さん、ありがとうございました! 

記事に掲載してもらった本棚の写真も追加しました。

ちょっと気になってふらっと隣のおばあちゃんを訪ねたら

親しくしている隣のおばあちゃんの姿を最近見ないので気になって、今朝、東京土産を持って訪ねたところ、とても元気にしていたうえに、驚きの話が。1944年にフィリピンのレイテ島で戦死した、おばあちゃんの従兄弟である元プロ野球選手の天川清三郎さんが亡くなった時に持っていた日章旗が返ってきたとのことでした。そして、ちょうどその返還式がその前日にあって、新聞に記事が出たところだったんです、と。

平安中から入団し1年半でレイテ島へ 戦死した南海元選手の日章旗、遺族に返還
(リンクは産経新聞(↓はこの記事のキャプチャ画像)。おばあちゃんが見せてくれたのは京都新聞だったけれど、見られないので産経の記事を)

この日章旗を持っていたのは、天川さんを撃ったアメリカ兵の孫。

レイテの村で天川さんとばったり出会ったそのアメリカ兵は、天川さんと同年代。互いに戦うような状況でなかった中、出会って互いに少し間を置いてから「しかし敵だ」と思い、彼を撃ったと。そしておそらく複雑な思いで、天川さんの所持品の中の日章旗を取り出して、いつか遺族に返そうとずっと持っていたようでした。そしてそれから80年が経ち、そのアメリカ兵の孫が、日章旗の遺族を探し続けていて、今年になっておばあちゃんがその報道を知って、返還されることになりました。

たまたまぼくがおばあちゃんを訪ねた日の前日(12月5日)がその返還式で、日章旗と米兵の孫から手紙を見せてもらいました。手紙には、その米兵もまた、野球をやっていて、大リーグの入団テストを受けたりしていたことも書いてあった。いまであれば、大リーグの舞台で勝負していたかもしれない二人が、たまたまレイテの村で出会って、互いに全く知らないながら、敵だからということで殺し合わなければならなかったことの不条理さは、戦争の悲惨さや愚かさをよくよく感じさせてくれます。

殺してしまった天川さんへの複雑な思いをおそらくずっと抱えて日章旗を大切に保管し続けていた米兵と、遺族を探し続けたその家族の思い、そして、「92歳になってこんなことがあるなんて、本当に生きててよかった」と満面の笑みを見せたおばあちゃんの姿に、本当に胸がいっぱいになる朝でした。

シャワーの修理を頼んだら、やってきた業者がやばかった

10日ほど前の夜、浴室のシャワーが急に全く出なくなった。自力で直すのは無理そうだったので、夜中、ネットで見つけた24時間対応の業者に連絡した。すると翌日電話が来て、夕方、提携先だという大阪の会社から3人の男性がやってきた。

早速見てくれたところ、「本体交換が必要です。製品10万、工賃2万、税込で132000円になりますが、製品を発注していいですか」とのこと。そんなにするのかと思いつつも、他に選択肢はなさそうだったので、仕方なく発注をお願いした。しかし彼らが帰ったあと、「もっと安い業者があるんじゃない?」と妻。改めて調べてみると、同じメーカーの製品は、高くでも5万くらい。10万もする製品など見当たらない。

そこで、家の建築業者と繋がりのある他社に尋ねると、本体交換+工賃で4万円台でできるという。10万円することはないだろうとのこと。これは怪しいなと思い、家に来た業者の男性にすぐ電話して、半額以下で見つかったのでキャンセルしたい旨を伝えた。すると男性は言った。「火災保険入ってますか?入ってたら、転んでぶつかって壊れたことにすれば保険おりますんで」。いきなり詐欺の誘いとなり、だいぶやばい業者だったかもしれないと気が付いた。結局、新たに頼んだ修理屋さんに来てもらったら、本体交換の必要はなく、部品交換だけですみ、工賃込みで14000円ほどですっきり直った。

ネットで見つけた「最短5分で対応」「出張費・お見積 0円」を売りにしている”水道修理屋”に連絡してやってきた業者です(サイトは、水道修理で調べるとたぶんすぐに出てきます)。来たのは爽やかな人たちで、僕もうっかり騙されるところでした。その日も大阪から、滋賀、宇治を回ってうちに来たと言っていたので、なかなか繁盛してそうで、騙されている件数もきっと多いはず。どうぞご注意を!

20年の節目の年に

『遊牧夫婦』の旅で最初に住んだのは、オーストラリア西部の小さな町バンバリーでした。半年暮したこの町では、イルカに関するボランティアをしながらゲストハウス(Wander Inn Backpackers)で働かせてもらっていたのですが、その時のゲストハウスのマネージャーで、僕らの"上司”だったマークが来日し、京都へ僕らに会いに来てくれました。

ゲストハウスで働いていたのは2003~04年。04年3月に僕らが、900ドル(当時約7万円)で買った中古のバンに乗ってバンバリーを出発した時以来、20年ぶりの再会でした。

当時ちょうどぼくらと同時期に、宿に住みだして一緒にボランティアをしていたけいすけくんも名古屋から参加。4人で京都で合流し、マークとぎゅっとハグした瞬間、思わずこみ上げてしまいました。

その後マークとは2日間一緒に過ごし、あっという間に別れる時が。20年前の別れ際(↓画像の文章参照)、思わず涙してしまった僕を慰めてくれたマークは、今回の別れ際は、声を詰まらせて笑いながら「泣かないぞ!」と言って、涙を見せないように遠ざかり、遠くから手を振ってくれました。

緑のバンと若い3人の写真は、2003年、バンバリーでの別れの時。長女も写っているのが一昨日の別れの時。

いまも夢だったような2日間。来てくれたマークに感謝。

20年前のマークとの別れの場面(『遊牧夫婦 はじまりの日々』(角川文庫))

9月23日(祝) 名古屋市の守山図書館で吃音をテーマとして講演します

9月23日に、名古屋市の守山図書館で吃音をテーマとして講演させていただきます。演題は

「吃音とは何か "伝えられないもどかしさ"の中を生きる100万人の苦悩」

『吃音 伝えられないもどかしさ』を出版した5年前は、自分の中で吃音に関する悩みはほとんどなくなったと思っていました。しかし、それからの5年の間で、吃音の症状に関しても浮き沈みがありました。また、症状とは別に、自分自身の性格や生き方、書き手としてのあり方に、ずっと影響し続けていることを感じさせられています。つくづく一筋縄にはいかないなあと感じます。

ご興味のある方、よろしければお気軽にご参加ください。人数も多くなく、交流の時間もあり、アットホームな場になりそうだなあと想像しています。

以下のURLよりお申込みいただけます。今日9月3日から受付開始になりました。どうぞよろしくお願いいたします。
https://eventwebreserve.tackport.co.jp/eventUsr_ngy/main/view/4889

6月に朝日新聞Re:Ronに寄稿した文章もよろしければぜひ。
マリリン・モンロー、エド・シーランも当事者 吃音の苦しみと理解

生産性という言葉に蝕まれているの感じながら思い出した、生産性を求めていた自分

朝日新聞Re:Ronに掲載された「微うつ」歴50年の異変…ヨシタケシンスケさんと「助けてボタン」を読んで、「生産性」ということについて考えました。

ここ数年、自分自身、生産性の魔にがんじがらめになっている感じがします。生活していくためにそうならざるを得ない部分もあるものの、じつは自分で自分を必要以上に焦らせているような気も。ヨシタケさんの言葉にはとても共感しました。

一方、自分は、「もっと生産性の高い生活をしたい」と思っていた時期がありました。長い旅から帰国したすぐあとのことです。そんなころにあった忘れられない出来事について書いたエッセイを『まだ見ぬあの地へ』に載せています。「旅の生産性」というタイトルの文章です。思い出したのでこちらに転載します。「旅が非生産的」だとすれば、それを5年間も続けられていたことはいかに豊かなことかと思います。「旅は非生産的だ」という言葉がいまは、まるっきり別な意味に聞こえます。ここに書いた友人とは、それ以降連絡を取ってないのですが、機会があったら、このことを直接話したいなあ…。

(以下、『まだ見ぬあの地へ 旅すること、書くこと、生きること』(産業編集センター)より)

旅の生産性

「『旅は非生産的だ』って近藤さんは言っていましたが、どういうことなのでしょうか」

『遊牧夫婦』の旅を終えて日本に帰ってきた直後、二〇〇八年の暮れに、ぼくは一人の友人からそんな内容が書かれたメールをもらいました。

友人というのは、その前年の二〇〇七年に中央アジア・キルギスの首都ビシュケクで知り合った二〇代の女性です。ぼくらが中央アジアを東から西へと移動しているときのことで、彼女は確か一週間ぐらいの日程でキルギスを訪れていて、宿だったかで一緒になったのでした。

それから一年ほどが経ち、ぼくらが五年間の旅を終えて帰国して少ししたころ、彼女を含めキルギスで一緒だった数人と、東京で再会する機会がありました。そのときぼくは、自分たちが日本に帰ってきた理由について彼女にこんなことを言ったのです。

「五年間、ずっと旅の中にいたら、ふと、『おれ、何やってるんだろう』って思うときが出てきたんだよね。ただ移動を繰り返してるだけの日々に嫌気がさしてきたというか。旅って、なんていうか、非生産的だし、だからもっと、仕事をしたりして生産的な生活がしたい、って思うようになった。それも日本に帰ろうって思った大きな理由の一つだったんだ」

その場では彼女は特に何も言わなかったものの、ぼくのその言葉が引っかかっていたようでした。そのすぐあとに、冒頭のメールが彼女から届いたのでした。

 

そのころぼくは、日本に帰ってまだ数カ月しか経っていなく、ライターとしてやっていくかどうかもはっきり決めていない時期でした。京都に住むことは決まったものの、いきなりフリーのライターとして食べていける自信など全くなく、とりあえず理系の仕事に就いて、会社などで働きながら細々と書いていくしかないかなと思い、派遣の登録に行ったりする日々を送っていました。しかし、就職経験が一切なく、五年間海外をふらふらしていた三〇代の自分にとって、就職先を見つけるのは想像以上に困難であるのがだんだんとわかってきました。こちらが興味を持った会社は、どこも会ってもくれませんでした。最初はタイミングが合わないだけかと思ったのですが、何らかの理由をつけられて「会えない」と告げられるケースが続くうちに、そうか、これは拒絶されているのだ、と気がつきました。そして思ったのです。これはもう、覚悟を決めてフリーライターでいくしかないな、と……。

ただ、いずれにしても、何をやっていくにしても、ちゃんと仕事をして、日本で普通に生活できるようにならなければ、という思いが強くありました。そして、旅に対しては、倦んでいたとも言える気持ちを抱いていました。それが言い過ぎでも、旅することに疲れ切り、とにかく、じっくりと腰を据えた生活がしたかった。

その気持ちの中には、自分は三二歳にもなりながら、社会に対してほとんど何も生み出すことができていない、積極的にかかわることもできていない、という焦りのようなものがありました。まずは日本でしっかりと稼いで食べていくということを最低限実現しなければいけない。そのためには自分が何かを生み出さなければいけない。しかし自分にとっては、それが決して容易ではなさそうなことをこのころ実感するようになっていたのです。

そう思うのと表裏一体な気持ちとして、良くも悪くも雑誌の原稿料などのわずかな収入で細々と食いつないでこられてしまった旅中の自分が、やたらと非生産的であったように感じるようになりました。そしてそのことをネガティブに捉えるようになっていました。「旅は非生産的だ」と負の意味合いで言ったのは、当時の自分のそのような状況と内面の表れでした。

 

そんな時期から、三年以上が経ちました。

いまは一応、文章を書いて最低限食べていけるようにはなっています。生産的でありたいという思いも、それなりに満たされるようになりました。でもその一方、毎日、仕事や子育てに追われ、旅らしい旅など全くできなくなっている中で、過去の旅を思い出しながら紀行文を書いていると、旅をしたい、と思う気持ちが再び強烈に湧き上がってくるのを感じます。

正直なところぼくはこれまで、紀行文の面白さ、魅力というものを、さほど感じたことがありませんでした。それゆえに、もともとは紀行文を書くつもりはなかったのですが、いろいろな経緯から『遊牧夫婦』などを書くことになり、いまもずっと書き続けています。さらに昨年からは大学で紀行文についての講義を担当するようにもなりました。

そうした中、ようやくいま、紀行文は面白いと確信をもって人に伝えられるようになっています。一言でまとめることは困難ですが、それはおそらく、旅というものが人間にとっていかに普遍的で必然的な行為であるのかを、自分自身の旅を振り返りながら文章化することを通じて、実感できるようになったということなのだろうと思います。

旅の持つ普遍的な魅力を感じられるようになるにつれて、自分が三年半前に言った、「旅は非生産的だ」という言葉をふと思い出すようになりました。友人がぼくに対して、「なぜそんなことを思うのか」と、おそらく多少の反感も抱きながら問うてきた気持ちがいまはよくわかる気がします。

そしていまはこう思います。旅は、何か具体的なものを生産する行為ではないかもしれない。でも、だからこそ、形では表せない無限の世界をその人の中に生み出すのだろう、と。

(2012・5)

今年も「旅と生き方」に関する講義を終えて(レポートを読んで思ったこと等)。

毎年前期に大谷大学で行っている、旅と生きることをテーマにした講義(人間学)も、今年でたぶん13年目くらいになりました。今年もようやく、レポートの採点、成績入力までを終了しました。

この講義は、旅が人生にどう影響するかということを、自分の長旅の経験や、様々な映像作品、世界情勢、歴史、文化などから語っていく内容で、毎年100人~200人くらいが受けてくれます。(講義の基本的な内容はこちらに書いています)

講義を受けて、少なからず影響を受けてくれる学生が毎年何人かはいるように感じます。ある年は、講義が終わったあとに休学してユーラシア横断の旅に出てくれた学生もいたし、行くかどうしようか迷っていた留学を、行くことに決めたと伝えてくれた学生もいました。またその他に、進路の相談や留学の相談をしに来てくれた複数の学生も含め、彼らの姿を見て、旅について考えることは、学生たちにとって大きな意味があるように感じています。

そのような中、今年度の講義のレポートを読み終えて、今年はとりわけ、いろんなことを感じてくれた学生が多かったかもしれないように思いました。

ある学生は、全然大学に行けてなかった中、たまたまこの講義をとって聴いていくうちに、いろんな生き方があっていいんだと思うようになり、背中を押され、そのうちに他の授業にも出られるようになったと書いていました。

またある学生は、姉が高校卒業後に海外の大学に進学し、そのままその国で就職して現在に至るとのことでした。その学生は、姉がどうしてそんな選択をしたのかがわからず、かつ、遠くに行ってしまったことがショックだったこともあり、姉の出国以来、かれこれ5年ほどほとんど連絡しないままだったとのこと。しかし、この講義を受けて彼女は、姉がどうして海外に行くという選択をしたのかがわかったような気がした。そして、姉にちゃんと連絡をしてみることに決めましたと書いてくれていました。

また、最近難病であることがわかったという学生は、これからどうやって生きていこうか途方に暮れる気持ちだったけれど、世界にはいろんな生き方をしている人し、いろんな生き方をしていいんだということを講義を通じて感じ、自分も自分の道を生きていけるような気がするようになった、と記してくれていました。

他にも多くの学生が、内面の深いところの変化について書いてくれました。僕の講義がまだ途中の段階で旅に出かけたくなってバイクの旅に出たという学生もいたし、夏休みに旅に出ることにしましたと書いている学生も複数いました。そして旅というテーマを通じて自分自身のこれからの生き方を真摯に考えていることが伝わってくるレポートがいくつもありました。

そんなみんなのレポートを読んで、僕自身がとても励まされました。この講義を12,3年やりながらも、なぜかいまも毎回毎回、緊張してしまうのだけれど(それは自分の性格ゆえ)、そんな緊張感を抱えつつも講義をやってきてよかったなと思いました。

一方、こんな講義をしながらも、じつは自分がいま全然旅をしていません。2020年の初頭にタイに行った直後にコロナ禍が始まったこともあり、以来海外が遠くなり、精神面や生活面でも思うようにいかないことが多くあり、気づいたらパスポートも切れてしまっていました。

そのように旅がすっかりと遠のいてしまった自分ですが、みんなのレポートを読んで、皆が旅の可能性を強く感じてくれたのを知って、自分自身もまた、短くてもいいから近いうちに旅がしたいと、いまとても強く思っています。

皆が講義に興味を持ってくれたことで、逆に自分自身がいま、旅の可能性を改めて強く感じています。

講義を聴いてくれた皆さんのこれからの人生を、陰ながら応援しています。「偶然性」と「有限性」を心に留め、そして「脱システム」を――。

デイリー新潮に記事掲載 <吃音をコントロールして流暢に話せるようになったはずの男性が、なぜあえて「どもる」話し方に戻したのか>

拙著『吃音 伝えられないもどかしさ』で全てをさらけ出してくれたTさんの現状について、記事を書きました。(7月5日、デイリー新潮掲載)

Tさんは現在、決して楽ではない状況にいます。その困難を、率直に語ってくれました。記事の中にも書きましたが、僕は彼に対して、取材を通して尊敬の念をも抱くようになりました。なぜその彼に、このような大変なことが起きるのだろうと、思わざるを得ません。広く届いてほしいです。

<吃音をコントロールして流暢に話せるようになったはずの男性が、なぜあえて「どもる」話し方に戻したのか>

吃音についての論考を、朝日新聞「Re:Ron」に寄稿しました

朝日新聞Re:Ronに初めて寄稿しました。再び自分の吃音が気にかかるようになっている今、思うことを。

マリリン・モンロー、エド・シーランも当事者 吃音の苦しみと理解
(有料記事ですが、8割程は無料で読めます)

吃音については、認知が広がり、社会の見方も変わり、取り巻く環境は近年大きく変わってきました。それは本当に良いことだと思うけれど、しかし、当事者の核にある困難はあまり変わっていないのでは、ともよく思います。それはおそらく、あらゆる生きづらさについて言えることなのでは。

そしていま、刑務所にいる知人の思いを届けたく、書きました。

こういうことを子どものころに教わりたかった――『君の物語が君らしく──自分をつくるライティング入門』 (岩波ジュニアスタートブックス)

僕はもともと、文章を読んだり書いたりすることに全く興味が持てなかった。子どものころ、本は嫌いで一切読まずで、たぶん、大学に入学するまでの18年ほどの間に積極的に読んだ本らしい本は、10冊あるかないかだと思う。記憶にあるところで、祖母で勧められて中学時代に読んだ『君たちはどう生きるか』、その流れで少し興味を持って読んだ山本有三の『路傍の石』『心に太陽を持て』など。あとは、読書感想文のために『こころ』を、中学、高校で読んだのと、中高時代に強く影響を受けた尾崎豊の小説は1,2つ読んだように思う。が、それくらい。また中学時代、塾では国語の成績だけ極端に悪かった。受験直前の模試で、国語が625人中598番で偏差値34。この数字はインパクトが強くて30年以上たったいまも覚えている。国語は完全に捨てて、残りの4教科で勝負しようと覚悟を決めたのもよく覚えている。

いずれにしても、そんな具合で本当に本や国語的なものとは縁が遠い幼少期で、その一方数学や物理がとても好きだったため、将来は物理学者などになりたいと思っていた。大学で合格した時にはまず「これでも国語の勉強をしなくていい、本を読まなくてもいいんだ」と思ったほどだ。

しかしそれが、大学時代のあれこれを経て、ノンフィクションを書きたいと思うようになり、そのまま、20年以上文筆業を生業としているのだから人生はわからないなと思う。

そしていま、なぜあんなに文章を読んだり書いたりするのが嫌だったのかと思ったりもするのだけれど、『君の物語が君らしく──自分をつくるライティング入門』 (岩波ジュニアスタートブックス)を読んで、少し当時の自分の気持ちが見えたような気もした。


この本は、書くことが持つ喜びや豊かさについて、平易で優しい言葉で書かれている。当時の自分のような、読み書きが好きだったり得意だったりしない子どもに寄り添い、語りかけてくるような本である。著者の澤田さんは現役の国語の教員である。きっとそういう子どもたちの姿を間近で見てきて、彼らの気持ち、彼らにどうやったら書くことの楽しさが伝わるのだろうとずっと考えてきたのだろうなと思った。

自分には、文章を書くことが楽しい、という感覚なんて当時一切わからなかったし、楽しいものなのかもしれない、と考えたことすらなかったと思う。読書感想文もひたすら苦痛でしかなかった。それはまさにこの本にあるように、先生が求める正解のようなものを書かないといけないと思っていたからなのだろう。

澤田さんは、自分のために書く喜び、楽しさを、いろんな角度から語ってくれている。なぜ書くことが喜びになるのか。<「書くことが得意/苦手」ってどういうことなのか>。<書くことを、自分の手に取り戻す>ためには、どんなことをすればよいのか。そんな問いを通じて、上手い下手とは全く別の、書くことの意味や価値を感じさせてくれる。こういうことを子どものころにしっかりと教わる機会があれば、書くことへの見方は全く変わっていたかもしれないなと思った。この本に出てくる「作家の時間」という澤田さんの授業を受けられている生徒さんたちがうらやましくなった。

僕はいまなお時々、自分が文筆業を仕事にしていることが不思議になることがある。また、幼少期に文章に接してこなかったことのツケや、書き手として致命的に欠けているものがあるのも感じている。でもその一方でいまは、この本に書かれているような、書くことが自分自身に与えてくれる喜びや意味は実感としてわかるようになってきている気がする。

澤田さんが本書の中で紹介しているスティーブン・キングの『書くことについて』については、自分もとても好きな本(この本について書いた拙文はこちら)。キングがこの本の終盤に書いている次の言葉は、澤田さんの本のメッセージと通じると思う。

<ものを書くのは、金を稼ぐためでも、有名になるためでも、もてるためでも、セックスの相手を見つけるためでも、友人をつくるためでもない。一言でいうなら、読む者の人生を豊かにし、同時に書く者の人生も豊かにするためだ。立ち上がり、力をつけ、乗り越えるためだ。幸せになるためだ>

書くことの楽しさを知ることは、生きていく上で、大きな力となり、支えになる。いまは実感としてそう言える。

ものを書くのは、幸せになるためだ――スティーブン・キングの『書くことについて』

今年度、書くことについて授業したりする機会が少し増えそうな予感がある。であればこれまでよりも確固たる意識で臨みたく、こないだ本多勝一の『日本語の作文技術』を20年以上ぶりに読み返した。やはり名著だなと感じ、その流れで、スティーブン・キングの『書くことについて』も読み返した。

『書くことについて』は、10年程前、作家の新元良一さんに薦められて読み、大きな刺激をもらって以来、文芸学科の学生などによく薦めている。一度読んだきりだったので詳細は忘れてしまいつつも、読んだ時の気持ちの高まりや、おれももっと書こう!と思った気持ちだけはずっと頭に残っていた。久々に読み返すとまさに、「そうだった、この興奮だった」と、最初に読んだ時の気持ちを思い出した。

キング本人の自叙伝的文章から始まり、書くことについての具体的な方法論へと移っていく。全体として物語性があり、引っ張る力がすごい(田村義進さんの訳の良さもあると思う)。1つのノンフィクション作品のような作風だが、読み進めるほどに、「書くことついて」というテーマがいろんな形で伝わってくる。

自叙伝的部分からは、超大御所の作家でもやはり最初は苦労したんだなということが伝わってくるし(クリーニングの仕事や高校教師をしながら、作品を投稿しては不採用通知が届く、という時代がしばらくあった)、方法論の部分も、文章の技術的な点(とにかく文章はシンプルにしろ、と)、どう書き進めるか、原稿の見直しの仕方、リサーチの方法、編集者へ手紙を書く上で大事な点など、自身の経験に基づいた方法や考えを率直に、具体的に書いている。

方法論の中で特に印象的な部分がある。<ストーリーは自然にできていくというのが私の基本的な考えだ>(p217)というあたりだ。<作家がしなければならないのは、ストーリーに成長の場を与え、それを文字にすることなのである><ストーリーは以前から存在する知られざる世界の遺物である。作家は手持ちの道具箱のなかの道具を使って、その遺物をできるかぎり完全な姿で掘りださなければならない>

ストーリーは、土の中に埋まった化石のようにすでにそこにあり、それを丁寧に、傷つけずに掘り起こすのが作家の仕事だと言うのである。

<最初に状況設定がある。そのあとにまだなんの個性も陰影も持たない人物が登場する。心のなかでこういった設定がすむと、叙述にとりかかる。結末を想定している場合もあるが、作中人物を自分の思いどおりに操ったことは一度もない。逆に、すべてを彼らにまかせている。予想どおりの結果になることもあるが、そうではない場合も少なくない。サスペンス作家にとって、これほど結構なことはないだろう。私は小説の作者であると同時に、第一読者でもある。私が結末を正確に予測できないとすれば、たとえ心のなかでは薄々わかっていたとしても、第一読者はページをめくりたくてうずうずしつづけるだろう。いずれにせよ、結末にこだわる必要がどこにあるのか。どうしてそんなに支配欲をむきだしにしなければならないのか。どんな話でも遅かれ早かれおさまるべきところへおさまるものなのだ>(p219)

この言葉は、小説に限らずさまざまな文章を書く上でのスタンスとして、すごくヒントになる気がした。

方法論について書かれたあと、再びキング自身の話に戻るのだが、そこには、1999年の大事故について書かれている。彼は散歩中にヴァンに轢かれ、生死の境をさまようほどの大けがを負ったのだ。それはこの本を書いている最中のことだった。病院での苦しい治療中に彼は考える。<こんなところで死ぬわけにはいかない。> <もっと書きたい。家に帰れば、『書くことについて』の書きかけの原稿が机の上に積まれている。死にたくない>(p346)……。

その章の最後は、大事故による困難を経たあとの彼の、書くことについての思いで結ばれているが、その言葉が深く響いた。

<ものを書くのは、金を稼ぐためでも、有名になるためでも、もてるためでも、セックスの相手を見つけるためでも、友人をつくるためでもない。一言でいうなら、読む者の人生を豊かにし、同時に書く者の人生も豊かにするためだ。立ち上がり、力をつけ、乗り越えるためだ。幸せになるためだ><あなたは書けるし、書くべきである。最初の一歩を踏みだす勇気があれば、書いていける。書くということは魔法であり、すべての創造的な芸術と同様、命の水である。その水に値札はついていない。飲み放題だ。/腹いっぱい飲めばいい>(p358-359)

文筆業をはじめて20年以上が経ち、いま、書くことは自分にとって、生きるための手段という側面が随分大きくなってしまった。だからこそか、この言葉はすごく響いた。強く背中を押してもらった。読者を幸せにし、自分も幸せになるために――。

あと一点、どこだったか見つけられなくなってしまったけれど、前半に書いてあったこと。投稿しては不採用の通知をもらうという日々でのことだったか、作家デビュー直前のころのことだったか。ある編集者がかけてくれた一言によって、救われた、といった話があった。

それを読んで思い出したのが、自分が旅に出る前に、「週刊金曜日」のルポルタージュ大賞に応募した時のことである。確か原稿を送ったのは2002年の年末で、2003年3月に発表があった。送ったのは、吃音矯正所について書いた原稿用紙50枚ほどのルポルタージュ。

受賞の連絡はないままに結果発表の号が発売する日となったので、「ああ、だめだったんだな……」とがっくりしながらその号を手に取った。結果発表のページを見ると、やはり受賞はしていなかった。ところが意外なことに、誌面に自分の名前が見えた。編集長が講評の中で、自分の応募作について触れてくれていたのである。確かこんな主旨の言葉だったと記憶している。

<近藤さんの吃音矯正所のルポもよかった。ただ、構成の面でもう少し工夫がほしかった。次回作に期待したい>

その言葉は、実績もなく先行きも見えないまま、ライターとしてやっていくために日本を離れる直前だった自分にとって、かすかな、しかし大きな希望となった。その言葉があったから、結果発表のすぐあとに思い切って「週刊金曜日」の編集部を訪ね、なんとか載せてもらえないかと相談に行けた。結果、分量を半分くらいにし、追加取材をすることで掲載してもらえることになった(その記事)。そうして初めて、自らテーマを決めて書いた記事が雑誌に載ることが決まり、一応はライターと名乗ってもいいだろうと思える状態で6月、日本を出発することができたのだった。

その時の編集長は岡田幹治さん。2008年に帰国した後、同編集部に挨拶に行ったときにはすでに編集長を退任されていたのでお会いすることはできなかったが、あの一言が自分の背中を大きく押してくれたことは間違いない。いまもとても感謝している。

その岡田幹治さんが、2021年7月に亡くなられていたことをいま知った。

確実に時間が経った。いまやるべきことはいまやらないと、と改めて思う。

AIR DOの機内誌「rapora」に、<能楽師・有松遼一と巡る 源氏物語の京都>を執筆

北海道の航空会社AIR DOの機内誌「rapora」2024年4月号(4月1日発行)に記事を執筆しました。

<能楽師・有松遼一と巡る 源氏物語の京都>

大河ドラマ「光る君へ」によって『源氏物語』が盛り上がる中、舞台となる京都にある物語ゆかりの地を紹介しようという6ページの特集記事です。案内役となってもらったのは、若き能楽師として活躍する有松遼一さん。京都在住の有松さんとは友人でもあり、この特集の案内役に彼以上の適任はいないだろうと、依頼することになりました。取材・執筆は、僕と堀香織さんで担当し、撮影は松村シナさん。

有松さんとの打ち合わせで4か所のスポットが決まり(夕顔町、上賀茂神社、野宮神社、宇治川)、有松さん、堀さん、松村さん、そして制作会社である140Bの営業・青木さんとともに、昨年末に取材。記事を書きながら、この4か所を通じて『源氏物語』の大きな流れが見えてきて、学び多く楽しい仕事になりました(取材も大人の遠足のようで楽しかった!)。有松さんに案内役になってもらえて本当によかったです!

『光る君へ』もきっとさらに楽しくなるかと思います。
AIR DOご利用の機会には是非手に取ってみてください。







本多勝一さんの『日本語の作文技術』を20年以上ぶりに再読し、この本から受けてきた多大な影響に気がついた。

文章を書く上で自分が最も影響を受けてきた書き手は、沢木耕太郎さんだ。最初の出会いは確か、学部時代、研究室のスタッフだった女性に『一瞬の夏』を勧められたこと。その後、大学4年の卒業前に数週間インドに行った後に『深夜特急』を読み、そこから沢木さんのノンフィクション作品を次々読んだ。そして沢木さんのようなノンフィクションを自分も書きたいと思うようになり、ライター修行も兼ねた長い旅に出ることになった。長旅に出たとき、教科書としてバックパックに入れていったのもすべて沢木さんの文庫本だった。『敗れざる者たち』、『人の砂漠』、『紙のライオン』、『彼らの流儀』、『檀』などで、中でも、『彼らの流儀』と『人の砂漠』は、書き出しや構成を考える上で、何度も何度も読み返した。

一方、そもそも本の面白さを初めて自分に知らしめてくれたのは、立花隆さんの作品だった。それは沢木耕太郎作品に出会う前、大学に入って間もないころのことである。一浪をへて大学に入り、「物理学者か宇宙飛行士を目指すぞ」と高いモチベーションを持っていたころ、立花氏の『宇宙からの帰還』を知った。高校時代まで、読むことにも書くことにも興味を持てず、本とはほとんど無縁だったが、ふとこの本を読み出したら、夢中になった。初めて本を面白いと思った。その後、彼の作品をあれこれ読み進めていく中で、もしかしたら自分は、サイエンスについて書くジャーナリストのような仕事に興味があるのかもしれない、と思うようになる。当時大学で立花氏の講義があり、それを何度か聴講した影響もきっとあったのだろうと思う(やってくるゲストがすごかった。大江健三郎だったり、鳩山邦夫だったり。90分の授業を180分まで延長したあげく「これで前半終了。これから後半」と言ったのにも衝撃を受けた)。

いずれにしても、そうして立花隆の影響を受けたあと、ようやくそれなりに本を読むようになり、その過程で沢木耕太郎作品に出会った。そして結果として沢木さんの影響をより濃く受けるようになったというのが、自分自身の認識である。

しかしその認識は少し修正されるべきかもしれないと、最近ある本を読んで、思った。それは本多勝一の『日本語の作文技術』である。大学時代に読んだこの本を再読し、自分はこの本の影響をとても強く受けているだろうことに気づかされたからだ。

立花隆を知ってからか、沢木耕太郎を知ってからかははっきりとは覚えていない。けれども、文章を書いて生きていきたいと考えるようになってからこの本を読み、読んだだけでなぜか文章がうまくなった気がしたことはよく覚えている。

読んだだけでどうしてそんな気持ちになれたのか。それを知りたいという気持ちもあって今回再読したのであるが、読むほどに納得できた。いま自分が文章を書く上で大切にしている技術的なポイントの数々が、これでもかと書かれていた。緻密ながらもわかりやすく。「そうか、自分はこの本を読んだから、このような意識で文章を書いているのか」と再認識した。

2章の冒頭にこんな例文が登場する。

<私は小林が中村が鈴木が死んだ現場にいたと証言したのかと思った。>

多くの人は、「こんなわかりにくい文を書く人はいないだろう」と思うだろう。自分も思った。ちょっと笑った。うん、確かにこれは極端だ。しかし、私たちが日々接する少なからぬ文章が、実際にはこのような書き方になってしまっているらしいことが本書を読むと見えてくる。こうならないように気を付けるだけで文章はかなりわかりやすくなる、そのためにはどうすればいいか、を様々な側面から極めて具体的に教えてくれるのがこの本なのだ。

私たちが学校で習う日本語の文法は、明治以降の西洋の文法観の影響のもとに築かれたものであると本書は言う。その結果、日本語の文法は、日本語にそぐわない形で体系化されてしまったという話もなるほどだった。特に、「主語と述語」が大事だというのは英語の話で、日本語には「主語はない」(主格があるだけ)、という論には頷かされた。この例を代表とするような西洋の文法観が知らぬ間に私たちの日本語の捉え方にも影響を与えているのだとすれば、それは私たちが書く日本語にも影響を与えているのだろう。50年前に書かれたことだから、いまでは常識なのかもしれないけれど。

一方、50年近く前の本ゆえに、いま読むと驚かされることも数多い。
たとえば、本多氏は言う。いま(=70年代)「あぶないです」「うれしいです」という言葉遣いが増えているがこれは間違い、「あぶのうございます」「うれしゅうございます」と言うべきである、と。また、英語は専門家にしか必要がないから中学生が学ぶ必要などない、とも書かれていた。いずれも、いま読むと逆にとても新鮮だった。さらに、当時は手書きで書くのが当然の時代だったからだろう、植字工が植字を間違えないようにするための原稿執筆段階での工夫なども書いてあって興味深い。

背景がそれだけ違う時代に書かれた本でありながら、しかし、文章技術に関する話は、いま読んでも一切古びた感じがないし、違和感もない。

文筆を生業として20年以上がたったいま、改めて読めてよかった。

古賀史健『さみしい夜にはペンを持て』を読んで、思いがけない光が見えた

次女は本が好きなので、学校に行かずに家で過ごす午前中に、よく一緒に本屋に行く。

行くといつも、「何か一冊ほしいのがあったら」ということになり、次女は喜んで本を探す。その彼女が先日選んだのがこの本だった。古賀史健さんの『さみしい夜にはペンを持て』。娘はこの本を書店で何度か見たことがあるようで知っていて、自分も読みたいと思っていた本だった。

帰って早速読み出した次女は、学校に行けない主人公のタコジローに共感することが多かったようで、「気持ちすごくわかるー」「読書感想文が好きじゃない理由、タコジローと全く同じやわ」などと言っていた。読み終わると「好きな本の一冊になった」。「日記、少し書いてみようかなって気持ちになった」とも。実際に書いてはいないようだけど。また、ならのさんのイラストにもとても惹かれたようだった。

僕も昨日読み出して、さっき読み終わった。娘の話から想像するよりも文章読本的要素が強かったけれど、娘が「気持ちわかる」と言っていたのにすごく納得した。文章、そして日記を書く意味を教わっていくタコジローが、教えにすぐには納得せずに「でも……」と疑問をぶつける様子が、娘の感覚に似ているのだろうなと思った。

自分にとっても、タコジローが疑問を挟むのは、「そう、そこを聞いてほしいと思ってた!」と感じる点ばかりで、とてもしっくりきた。本全体として「誤魔化していない」感じがあった。子どもを言いくるめようとしてなくて、正面から答えている。だから、子どもに届くのだろうなと思った。

また、書くことについてたくさんの発見があった。「世界をスローモーションで眺める」「メモは、ことばの貯金」「『これはなにに似ているか?』と考えてみよう」などの言葉は、なるほど!だった。文章を書く上でなんとなく自分もそのようにやっているような気はするけれど、言語化できるほど意識できてはいなかった。このような形で明確に言葉にしてもらえると、その点に意識的になれて、これから書いていく上で少なからず助けになりそうに思う。これらが書かれた<4章 冒険の剣と、冒険の地図>はまた読み直したい。

そして何よりも、この本を読みながら、ふと大きな気づきを得た。
どうすればいいかわからないまま1年ほどが経とうとしている事柄について、もしかしたら、こうすればいいかもしれないという案が浮かんだ。初めて、フィクションとして書いたらいいのかもしれない、と思った。ある人に宛てた手紙のような形にして。会ったことはなく、向こうも自分を知らない、ある一人の人に宛てた物語として。

明らかにこの本がくれた気づきだった。
大きな光が見えた気がする。
できるかどうかわからないけれど、やってみたい。

タコジローの物語に、大きな力をもらいました。
この物語を届けてくれた古賀さんに感謝です。

武田砂鉄『わかりやすさの罪』のライブ感に圧倒され、読みながらぐるぐる考えた

武田砂鉄『わかりやすさの罪』読了。圧巻の読後感で、いまの気持ちを書き留めておきたいと思って、読んだ直後にこの文章を書きだしている。何を書いたらいいかはわかっていない。

武田さんがこの本の中で、何を書くかを決めないまま「見切り発車」でいまこの原稿を書いている、といったことを書いていた。そう言いつつ、ある程度道筋を立ててから書いているのだろうと当初は思ったりもしたのだけれど、読み進めると確かに、その場で必死に手探りしながら話を展開させているように感じられてくる。その章のテーマに関する話題が縦横無尽に飛び込んでくる。急に話が変わったりする。で、その一つ一つが、確かにテーマを多面的に考えさせてくれる。臨場感やライブ感が文章にあり、その熱量がこちらに直球で届いてきて、こちらも激しく思考することになる。読んでいてこちらも息が切れてくるというか、まさにライブを見にいったときのような心地よい疲労感を得ながらページをめくった。

自分自身のことを言えば、自著について「読みやすかった」「わかりやすかった」という感想をもらうのは、正直そんなに嬉しくはない。昔は嬉しかった気もするのだけれど、いまは、わかりやすいかどうかよりも、自分が伝えたいと思った事実やメッセージがどう届いたかが気になる。読後に思わず考えこんだ。などと言われたら、読んでもらえてよかったと思う。

でも一方で、自分の日々の仕事として多いのは、研究者にインタビューしてその研究について記事を書くことである。その場合は、「わかりやすかった」と言われるのは嬉しいし、よかったと思う。というのも、こういう記事の場合、記事を書く主要な目的は、専門家でないととてもわからないような難解な事柄を、その分野に縁のない人にもわかってもらえるように伝えることだから。

とは思いながらも、改めて考えてみると、科学の研究というのは、どんな分野のことであっても大抵、そんな記事1本では本当の深いところはわかりようがない。本当にはわかっていないことについてあたかもわかったような気持ちになれる記事を自分は書いているだけ、ともいえる。それでいいのか。いや、このような記事の目的は、研究を細部まで理解してもらおうということでは決してなく、あくまでも研究に興味を持ってもらう入り口としての役割を果たすことであるからいいのだ、とも思う。それを読んで、さらに深く知りたいと思ってもらえるきっかけが作れたらよいのだと。

ただ自分自身、にわか勉強とインタビューだけでは、研究者が人生を賭してきた研究の細部は到底理解できない。わかっていないまま書いている。自分の理解が及んだ範囲で、研究の内容を咀嚼して、必要なところを自分の表現に置き換えて書いている。そう考えると自分は、本当にはわかっていないことを、あたかもわかった気になれるような文章を書く技術だけが身についてきてしまったのではないか、という気もする。この本を読んで、そう思った。

でも、じゃあ、本当に細部までわかっていないのであれば、書かない方が良いのかと言えば、そうは思わない。もしそうであれば、研究者や当事者本人以外、何も書けなくなってしまう。武田さんも書いている通り、それは違うだろう。大事なのは、書き手が、話し手が、「わかっていない」ことを自覚しながら発信することだと思う。そしてまた受け取り手も、何かを読んだり聞いたりしても、決してすべてをわかったような気にはならないこと。ある事柄のほんの断片を知ることができただけだと考えること、ではないか。世の中のあらゆることは複雑で、わかりやすいことなどほとんどないのだから。

しかし現実には、わかっていないことをわかったように伝え、わかっていないことをわかった気になって安心するという現象・状態が蔓延している。わかっていないのに、わかったようなふりをして、「これを読めばすぐにすべてがわかりますよ!」とアピールして人を引きつけ、儲ける。それを読んで、「そうだったのか、これで全部わかった」という気持ちになって、考えることをやめる。そういうことがますます増強される社会になっている。

そんな社会に対する違和感、嫌悪感を武田さんは、本書で粘り強く、さまざまな事例から、これでもかと書く。なるほど、まさに!と頷くことが多いながら、うまく理解できなかったこともあり、また、ん、そこは自分はそうは思わない、と思うところもあった。だからいいのだろう。武田さんの言葉をこちらも真剣に考えた。お前はどう考えるんだと何度も問われた気持ちになった。そうして、考え、しかし完全にはわからないからこそ、また考える。そういう体験が社会全体に必要なのだろう。わかりにくいことを受け入れる。わかりにくいことに向かっていく。いろんな人と、感想を語り合いたいと思った。

「文庫版によせて」の最後の一文、
<「うまく言葉にできない」を率先して保ちたい。>
に自分は、吃音によってうまく言葉にできない人の思いを重ねた。
1分で要点を言える人が偉い、すごい、みたいな社会の中で、
「うまく言葉にできない」ことの意味はあると思う。
でも、それをうまく言葉にできない。考え続けたい。

武田さんにならって「見切り発車」で感想を書いたら、このような文章になった。うん、この感覚を大切にしたい。