武田砂鉄『わかりやすさの罪』のライブ感に圧倒され、読みながらぐるぐる考えた

武田砂鉄『わかりやすさの罪』読了。圧巻の読後感で、いまの気持ちを書き留めておきたいと思って、読んだ直後にこの文章を書きだしている。何を書いたらいいかはわかっていない。

武田さんがこの本の中で、何を書くかを決めないまま「見切り発車」でいまこの原稿を書いている、といったことを書いていた。そう言いつつ、ある程度道筋を立ててから書いているのだろうと当初は思ったりもしたのだけれど、読み進めると確かに、その場で必死に手探りしながら話を展開させているように感じられてくる。その章のテーマに関する話題が縦横無尽に飛び込んでくる。急に話が変わったりする。で、その一つ一つが、確かにテーマを多面的に考えさせてくれる。臨場感やライブ感が文章にあり、その熱量がこちらに直球で届いてきて、こちらも激しく思考することになる。読んでいてこちらも息が切れてくるというか、まさにライブを見にいったときのような心地よい疲労感を得ながらページをめくった。

自分自身のことを言えば、自著について「読みやすかった」「わかりやすかった」という感想をもらうのは、正直そんなに嬉しくはない。昔は嬉しかった気もするのだけれど、いまは、わかりやすいかどうかよりも、自分が伝えたいと思った事実やメッセージがどう届いたかが気になる。読後に思わず考えこんだ。などと言われたら、読んでもらえてよかったと思う。

でも一方で、自分の日々の仕事として多いのは、研究者にインタビューしてその研究について記事を書くことである。その場合は、「わかりやすかった」と言われるのは嬉しいし、よかったと思う。というのも、こういう記事の場合、記事を書く主要な目的は、専門家でないととてもわからないような難解な事柄を、その分野に縁のない人にもわかってもらえるように伝えることだから。

とは思いながらも、改めて考えてみると、科学の研究というのは、どんな分野のことであっても大抵、そんな記事1本では本当の深いところはわかりようがない。本当にはわかっていないことについてあたかもわかったような気持ちになれる記事を自分は書いているだけ、ともいえる。それでいいのか。いや、このような記事の目的は、研究を細部まで理解してもらおうということでは決してなく、あくまでも研究に興味を持ってもらう入り口としての役割を果たすことであるからいいのだ、とも思う。それを読んで、さらに深く知りたいと思ってもらえるきっかけが作れたらよいのだと。

ただ自分自身、にわか勉強とインタビューだけでは、研究者が人生を賭してきた研究の細部は到底理解できない。わかっていないまま書いている。自分の理解が及んだ範囲で、研究の内容を咀嚼して、必要なところを自分の表現に置き換えて書いている。そう考えると自分は、本当にはわかっていないことを、あたかもわかった気になれるような文章を書く技術だけが身についてきてしまったのではないか、という気もする。この本を読んで、そう思った。

でも、じゃあ、本当に細部までわかっていないのであれば、書かない方が良いのかと言えば、そうは思わない。もしそうであれば、研究者や当事者本人以外、何も書けなくなってしまう。武田さんも書いている通り、それは違うだろう。大事なのは、書き手が、話し手が、「わかっていない」ことを自覚しながら発信することだと思う。そしてまた受け取り手も、何かを読んだり聞いたりしても、決してすべてをわかったような気にはならないこと。ある事柄のほんの断片を知ることができただけだと考えること、ではないか。世の中のあらゆることは複雑で、わかりやすいことなどほとんどないのだから。

しかし現実には、わかっていないことをわかったように伝え、わかっていないことをわかった気になって安心するという現象・状態が蔓延している。わかっていないのに、わかったようなふりをして、「これを読めばすぐにすべてがわかりますよ!」とアピールして人を引きつけ、儲ける。それを読んで、「そうだったのか、これで全部わかった」という気持ちになって、考えることをやめる。そういうことがますます増強される社会になっている。

そんな社会に対する違和感、嫌悪感を武田さんは、本書で粘り強く、さまざまな事例から、これでもかと書く。なるほど、まさに!と頷くことが多いながら、うまく理解できなかったこともあり、また、ん、そこは自分はそうは思わない、と思うところもあった。だからいいのだろう。武田さんの言葉をこちらも真剣に考えた。お前はどう考えるんだと何度も問われた気持ちになった。そうして、考え、しかし完全にはわからないからこそ、また考える。そういう体験が社会全体に必要なのだろう。わかりにくいことを受け入れる。わかりにくいことに向かっていく。いろんな人と、感想を語り合いたいと思った。

「文庫版によせて」の最後の一文、
<「うまく言葉にできない」を率先して保ちたい。>
に自分は、吃音によってうまく言葉にできない人の思いを重ねた。
1分で要点を言える人が偉い、すごい、みたいな社会の中で、
「うまく言葉にできない」ことの意味はあると思う。
でも、それをうまく言葉にできない。考え続けたい。

武田さんにならって「見切り発車」で感想を書いたら、このような文章になった。うん、この感覚を大切にしたい。