『月刊すこ~れ』連載 「子どものなぜへのある父親の私信」第3回(2018年11月号掲載)

『月刊すこ~れ』2018年11月号掲載の連載第3回です。

Q シイタケが嫌い。でも、「好き嫌いしないで、食べなさい」って言われる。なぜ、嫌いなものも食べないといけないの? 

A ぼくも子どもの頃、シイタケが嫌いでした。いまは美味しいって思うけれど、当時は、なんでこんなものを好んで食べる人がいるのだろうと不思議でした。でもやはり、親には「食べなさい」って言われたし、いま自分自身、子どもに対して、好き嫌いはよくないよと、当然のように言っている気がします。
 でも、「どうして嫌いなものも食べないといけないの?」と問われると、じつは少し考えてしまいます。栄養が偏らないようにというのが、おそらく一番よく言われる理由でしょう。でも、よく考えると少し疑問も。もちろん、野菜を一切食べなかったり、嫌いなものがすごく多かったりすれば、栄養が偏って身体によくないと思いますが、たとえばシイタケだけを食べなくても、そんなに問題ではないのでは? 栄養という意味では、きっと他の食べ物で補えるし、何か一種か二種だけを食べなかったから病気になるということはおそらくないような気がします。そう考えると、嫌だなと思うものを無理に食べる必要は、ないのかもしれません。そのためにご飯が楽しく食べられなかったら、その方が問題のようにも思います。
 ただその一方で思うのは、食事にはいつも、作ってくれた人がいるということ。お母さんやお父さん、おばあちゃんやお店の人。好き嫌いしないで食べられたら、そういう人たちが喜んでくれるということはきっとあります。特に、毎日のご飯を作ってくれる人、たとえばお母さんやお父さんは、家族が何でも食べてくれたらきっと嬉しい。ぼく自身、まさにそうです。逆に、自分が作った料理を子どもが、「これは嫌!」って言って残したら、悲しい気持ちになってしまいます。
 でも、作った人のことを考える以上に、好き嫌いなく何でも食べられたら、きっといつも食事が楽しくなるし、毎日の喜びも増えるはずです。それが何よりも大切なようにも思います。そのことを知っているから、大人は子どもに、好き嫌いしないように、っていうのかもしれませんね。  

Q 猫や犬を殺してはダメ。でもどうして牛や豚は食べてもいいの?

A 多くの日本人は、牛、豚や鶏を肉として食べることにおそらく抵抗はないでしょう。でも犬や猫を食べることは、普段はまずありません。ペットとして飼い、一緒に暮らす対象です。しかし韓国や中国では、犬を肉として食べることもあります。一方、インドに行けば、牛はとても大切にされていて、基本的には食べません。また、イスラム教の国では豚を食べないのですが、その理由は、大切にされているからではなく、汚い動物と考えられているからです。そしてオーストラリアでは、牛や豚などに加え、カンガルーもよく食べられます。とてもたくさんいるからです。
 こうしてみると、人がどの動物を食べて、どの動物を食べないかは、その国や地域の風土、文化、宗教など、様々な要素と関係しているのがわかるでしょう。
 つまり結局は人間側の都合であって、どの動物は食べてよくて、どの動物はダメ、ということにみなが納得する客観的な基準はありません。
 ただ、確かなのは、生物は生きていくためには他の命を食べなければならないということ。人間も、他の生命を殺し、食べることがどうしても必要です。しかしそれは本当に重いことです。自分たちは他の生命によって活かされているのだということを、私たちは常に意識しておかなければならないと思います。
 昔、アマゾンのある民族の話を読んだことがあります。その民族の人たちは、子どもが生まれると、一匹の子猿を飼い、子どもとともに育てるそうです。すると子どもと猿は、仲の良い親友として一緒に大きくなっていきます。しかしその子が、一定の年齢に達し、大人になる儀式を行う時に、その猿を殺してみなで食べなければならないのです。その子は当然、とても嘆き苦しみます。残酷なことに思えるかもしれません。しかし、他の生命を食べて生きていくというのはこういうことなのです。そのことをしっかりと知って生きていかなければならないのだ、というこれ以上ない教育法なのでしょう。
 私たちはいま、食べることの重さを少し忘れすぎているのかもしれません。