ああ、行ってしまった・・・。ただ脱力感に襲われて、その場にじっと立ち尽くした。無意味な写真だけが手元に残った。
ただ、やり場のなかった悔しさと怒りは、男に直接言いたいことを言ったことで軽くなった。しかしその一方、男はいまごろほくそ笑んでいるのだろうかと想像するとまた頭に来た。でもこれ以上はどうしようもなかった。
そのまま男が歩いた道を西に歩いた。一応、見つけられただけでもよしとしないといけないのだろう。そう思いつつ歩きながら、彼との慣れないやりとりによって自分が猛烈に疲労していることに気が付いた。
このまま地下鉄に乗って宿に帰ろう・・・。再び南京東路へと戻り、けばけばしく光り輝くネオンの中を、人民広場駅を目指してさらに西に歩いていった。通りの輝きが、すべて胡散臭く見えてくる。
息をつく間もなくまた、怪しげな男たちから次々に声がかかる。
「ち○ち○マッサージ?」
「セックス?」
「どう? 安いよ。カワイイ子いるよ」
「ドコカラキタ?」
「ニホンジン?」
無視して通り過ぎても、5秒もするとまた別の男から声がかかる。そして、挨拶のように、言われるのだ。
ち○ち○マッサージ?――。
ふざけんなよ、こいつら・・・。ち○ち○ち○ち○、小学生みたいにうるせえなああ。聞いているうちに再び怒りが込み上げてくる。そして、あの男へのいら立ちが蘇るように、途中で本当にカチンときた。
勢い余って、ずっとついてくる若い男をぼくは思わず威嚇した。
「おい!」
と言って、急に振り返り、男に向かって攻めるようなポーズをとった。
ビビって退散するだろう。そう思ったが、よく見ると血の気が多そうな男だった。男は一瞬ビクッとしながらも顔に怒りを露わにした。そして、こっちを指さしながら、逆上して声を荒げた。
「HEY! FUCK OFF!!」
予想しなかった反撃にむしろこっちがビビッてしまった。慣れないことをするもんじゃなかった。見かけ倒しでビビりの自分は、パパイヤにボディを褒められたとはいえ(「何気に結構喜んでるんじゃないか?」という推測ははずれです、念のため)、ケンカして勝てる自信などまったくないし、そもそもこんなところで暴力沙汰を起こせば、それこそ大変なことになるだろう。
そして、若干目が覚めた。冷静になれ、落ち着け、落ち着け・・・。こんなところでわけのわからないトラブルを起こしたら本当の馬鹿だぞ。気持ちを静めるのに必死だった。
それからは寄ってくる男たちをすべて無視しながら歩いて行った。そして、しばらく歩いたあと、猛烈に疲れを感じ、デパートの横のベンチ的なところに腰かけた。すると間髪入れずに今度は女性が寄ってくる。髪が長く、すらっとして、顔つきも整った比較的きれいな20半ばぐらいの子だった。彼女は中国語でこう言った。
「すみません、道がわからないんだけれど・・・」
ああ、またこれか。そうか、これは定番の手口だったのかと、そのときようやく気がついた。脱力感に襲われて、「もういいから」と追い払うように手を振った。すると彼女は言ってくる。
「あれ、中国人じゃないの?どこの人?」
しばらく黙って無視した挙句、根負けして、ぼくは言った。「中国語わからないから、聞かないで」。すると、彼女はマニュアル通りなのだろう、昨日の男と同じようなことを次々に言ってきた・・・。
「目的はわかってるから。どっかいってくれよ。昨日同じやつに会ったから」
「え、どういうこと、どういうこと?私の目的って何?ただ道を聞いただけなのに」
途中から、英語と中国語が混じりあった会話になった。彼女は英語がうまかった。なかなか立ち去ろうとしない彼女を見ながら、ぼくは思った。そうか、それならば、逆に彼女にこの手口の内実を聞いてみようじゃないか、と。ぼくは、昨日騙されて金をとられたこと、その上今日も同じような連中が次々に来ることにむしょうに腹が立っていると、彼女に告げた。
彼女は「え?いくらとられたの?」などと言って驚いたふりをしながらも、ぼくが、「もういいから、いいから」と言い続けると、ようやく素の様子で話し始めた。自分もまた、同じようにあなたをKTVに誘おうとしているんだ、と。
「男の人はみんな女の子が好きでしょ?女の子としたいんでしょ?私は、ただ男の人にお店を紹介するだけよ。行くか行かないかは本人の勝手。選べるんだから、別に騙してるわけじゃない」
そんなことを言い、結局あなたもお店に行ったんだから、やりたかったんでしょ・・・などと言った。
いやいや、ちがうんだ・・・、と言いながら、細かく説明する気もしなくて、とにかく、まあ、いいから、と彼女がどんな生活をしているのかをぼくは聞いた。
「昼間は英語を習いに行って、夜はこの仕事をしてるの。好きでやってるわけじゃない。他の仕事を探してるけれど、見つからなくて。だからしょうがいないのよ、みな生活のために働くんでしょ」
そして、言った。
"That's life, right?"
彼女のその言葉を聞いたとき、ぼくは少し笑って「うん、そうだよな」と頷いた。そして、思った。あの男にも、それなりの事情があったのかもしれないと。無駄な怒りをぶつけるのではなく、むしろ、金はいいから、その代わりにどんな生活をしているのかを教えてくれ、と言うべきだったと思い至った。それが自分の仕事のはずだった。
やられたことはむかつくけれど、たしかにあの男も、こうでもしないと生きていけないのかもしれなかった。怒りとは別に、それを聞きだすことこそ、書き手として、自分がやるべきことではなかったのか。いや、しかし、あんなに日本語がうまいなら、いくらでもまともな仕事を見つけることだってできるはずだ・・・。
そんなことを思っているうちに、彼女が言った。
「ねえ、飲みに行かなくてもいいから。あそこのハーゲンダッツでアイスを買ってくれるぐらいいいでしょ」
ぼくは冷たく言い放った。
「何言ってんだ。なんでおれが奢るんだよ。おれと話してても時間の無駄だよ。他の男を探しにいけよ」
「ちょっとぐらいお金をちょうだいよ」
「ふざけんな、やらねえーよ」
彼女は顔に怒りを表した。そして、「チッ」と舌打ちをして足早に立ち去った。
彼女が立ち去ると、待っていたかのように、今度は2人組の大学生ぐらいの女の子が話しかけてくる。彼女らを遮って歩き始め、地下鉄の人民広場駅の入口に入ろうとすると、次は派手な女の子が、露骨にぼくの腕をつかんできた。
「ねえ、どこにいくの・・・」
ぼくは唖然としてしまった。上海ってこんなところだっただろうか――。住んでいたころは、あまり南京東路などには来なかったから気づかなかっただけだろうか。それとも今回はあまりにも自分が観光客然として映っているのだろうか――。
異国にいるということをこんなにも実感したのは久々のことだった。地下鉄の駅に入りながら、ぼくはあの男のことを考えた。いったい今、あいつはどんな顔をしているのだろう。馬鹿な日本人だったな、と笑っているのか。そして次の獲物と一緒に南京東路をすでに歩き出しているのだろうか――。
あの男にも事情が・・・なんていう気持ちは消え去った。そしてまた猛烈に怒りが襲ってきた。
クソッ!
何度もそう呟きながら、そしてその一方、さっき"FUCK OFF!"と言った男の仲間なんかがまさか追いかけてきたりしてないだろうな、とわずかばかりビビりながら、ぼくは終電間際の地下鉄に乗り込んだ。