開催中のワールドカップに関連して、TBSラジオ「アシタノカレッジ」にて武田砂鉄さんが、サッカーと政治や人権との切り離せない関係や、サッカーが国によってはいかに国民にとって大切な存在であるか、と言ったことを話していたのを聞いて、かつて東ティモールで経験したことを思い出しました。
20年以上のインドネシア占領の苦しい時代を残り超えて独立したのが2002年のこと。それから2年の国連軍による支援期間を終え、まさにこれから国として自立しなければならないという時期だった2004年5月11日、サッカーの全国大会「プレジデントカップ」の決勝戦が行われました。独立二周年の記念日を4日後に控えてのこと。
決勝戦の一方のチームの監督ジョンが、ぼくらが泊っていた宿に出入りしたことから知り合いになり、その縁で試合を観戦に行くことになったのですが、それは本当に、ずっと心に残る時間になりました。不透明な未来を前にそれぞれが複雑な気持ちを抱えつつも、スタジアムの内外には多くの人が集まり、熱狂する。そしてジョンが経てきた人生とサッカーへの情熱、それを影で支える宿のオーナー、オーストラリア人のヘンリー。さまざまなシーンやエピソードがいまも胸に迫ってきます。
そんなことを、10年以上前に出版した『遊牧夫婦』の中に書きました。自分自身、この本の中で一番好きな部分の一つでもあり、ふと思いたち、以下にその章「18 ジョンたちの決勝戦」(文庫版)を、写真とともにアップしました。中途半端なところからになりますが、よかったら読んでいただけたら嬉しいです。本に載せていない写真を複数掲載したので、すでに読んでくださってる人もぜひ。
ちなみに、ヨハンは、同じ宿に滞在していて親しくなった同年代のスウェーデン人。彼は東ティモールの政治について修士論文の執筆をしていて、ぼくは初めて依頼を受けての雑誌記事執筆中(東ティモールの独立2周年の様子について)。そしてエモンは宿で働いていたティモール人です。
以下、本文です。2022年10月時点での東ティモール代表のFIFAランキングは198位。ジョンの夢はまだ実現してないけれど、いまも彼の熱量が、そのまま心に刻まれています。
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18 ジョンたちの決勝戦
ヨハンとともに三人で浮かれた日々を送りつつも、記事を書くための取材は少しずつ進めていった。ただ、企画が通ったあとで取材・執筆するというのはじつは初めてだったため、うまくできるだろうかという不安が少なからずあって、ぼくは何気に気が気ではなかった。
その点、ヨハンが身近にいたことで助けられた。彼はぼくらよりたしか一カ月ほど前から東ティモールに滞在していて、すでに研究のためのインタビューを重ねていたので、ぼくにとって大きな道しるべとなってくれた。
しかもヨハンの強気な取材方法は、物怖じしやすい自分を後押ししてくれた。驚かされたのは、彼がある政党の代表者だかをインタビューしようと、その人物に電話でアポを取っていたときのこと。キッチンで彼が携帯から電話するのを聞いていると、どうもインタビューに応じてもらえなそうな様子だった。するとヨハンはこんな感じでまくし立てるのだ。
「なんで、取材に応じてくれないんですか? ああ、そうですか、応じてくれないのなら、フレテリン(与党)の○×からのインタビューだけで、論文を書き上げてしまいますからね。それでもいいんですか? スウェーデンに偏った東ティモール事情が伝わることになりますよ」
驚くほど強気なのだ。もちろん彼が、影響力の大きな新聞やテレビの記者であるなら、言わんとしていることはわかるのだが、なにしろこれは一修士論文なのである。電話の相手になんと言われたのかは不明だけれど、「勝手にしてくれよ」と、あしらわれてもおかしくはない。
ひとりの大学院生としてヨハンがそう言っているのを聞いて、ぼくはただただ感心した。大メディアの人間がそんなことを言ったら、たちの悪い脅しのようにも聞こえてしまうが、修士論文のためのその主張は、ヨハンが、肩書きで相手を説得しているのではなく、自らの研究に誇りを持って取り組んでいることを表しているようにぼくには思えた。なるほど、そのくらい気持ちを込めて取材をするべきなのだろうと、すっかり鼓舞されたのだった。
実際に取材を始めると、思ったよりも人には会いやすかった。偶然出会った人やツテがある人に話を聞いていくというところから始めたが、その方法でかなりさまざまな立場の人と話すことができていった。
まずは、ヘンリーやヨハン、エモンとその友人たちといった身近な人からざっくりと状況を聞く。と同時に少しずつ範囲を広げ、日本料理店の主人とその店でたまたま出会った自衛隊員、ダイブショップを経営するイギリス人夫婦などにそれぞれの印象を聞いていった。ヨハンが築き上げていた人脈にも助けられた。
さらに、ふらりと大学に行けば、学生から話を聞けるし、その流れで大学の先生にも何人かインタビューできた。そのうちにだんだんと要領がつかめてきて、他に、JICAの駐在員、文部科学省から派遣された日本の役人、NGO職員、ジャーナリスト、現地の弁護士、ニューハーフらしい美容師さん、レストランの店員さんに服屋さん、路上で休む労働者、インドネシアのビジネスマン、といった具合に、話す相手をどんどん広げることができていった。
彼らから聞いた話に加え、日々ディリの町を歩き、郊外をバイクで走ることで、自分なりの東ティモール像が、ぼんやりとだができあがっていった。
話を聞くと、言うことはみなそれぞれに異なった。
たとえば、「楽観的にはなれないな」と渋い顔を見せるのは、ダイブショップを営むイギリス人夫婦の夫ウェインだ。
「この国の人間は、自分たちが何をすればいいかをわかっていない。自立する準備ができているとは思えないよ。おれは自分のビジネスが心配だ。おれの全財産は東ティモールにある。この国が終わればおれも終わりなんだよ」
と、不安そうなことを言うものの、ゴツい体を揺らしながら、ガハガハガハッと笑っている。彼はもともと戦場を駆け回っていたジャーナリストだっただけあって、そう言いながらも、いまの状況を楽しんでいるようだった。
「いつ何が起こっても不思議じゃないってのは、でも、魅力的なんだよな。おれはそういう場所で人生を送りたいって思ってるんだ」
まんざらでもない、というわけだ。
その一方、ウェインの妻アンは、全く逆の見通しを持っていた。彼女もテレビのジャーナリストとして二十年近いキャリアを持ち、当時は、「東ティモール観光協会」だったかの副代表も務めていた人物だ。
「独立からの二年間で、この国は急速に経済を再建させたわ。もちろん、まだまだたくさん問題はあるし、完璧ではないけれど、未来は明るいと私は思っているの。ここの海は間違いなく世界屈指の美しさだし、観光業がきっと発展するはずよ。ティモール人はとても強いし、なによりも、すべてが新しいというのは素晴らしいことよ」
完璧である必要はない。あるものでできることをやればいい。それでなんとかなるはずだ。アンはこの国とティモール人の強さを信じていた。
夫婦で全く逆の印象を持つこの二人に代表されるように、意見は悲観派と楽観派に真っ二つに分かれた。先行きを心配する人は、東ティモールが自立するのはまだ早い、産業だって何もないじゃないか、と口を揃える。しかし、明るい未来を想像する人は、二年でここまで来たんじゃないか、この国はこれからなんだ、と前を向いた。
ぼくは、話を聞くごとに、この国の抱える問題の深さに「うーん、そうなのか……」と唸ったり、いや、「すごい可能性が広がっているのかもしれない」と明るい気持ちになったりを繰り返していた。
そうして毎日のように気持ちが揺れ動く日々でのこと。ぼくは、この国の印象を一気に明るくするひとりの陽気なティモール人と知り合った。取材で出会ったわけではない。もともと、何者かは不明だけどちょくちょく宿に現れてまるで自分のうち同然にシャワーを浴びている男がいる、あれはいったい誰だろう――出会いはそんなところだった。
シャワーを浴びたり何かを食べたり、楽しげな用事を済ませると、さっぱりした顔で宿を歩き回り、ヘンリーと談笑する。そしてぼくらに気づくとにこやかに話しかけてくる。
「ハロー、ハロー! アイ・アム・ジョン!」
彼はとにかく陽気で、早口に英語を話す。黒い肌と天然パーマの効いた短い髪、はっきりとした顔立ちが微妙にカール・ルイスを思わせる。歯茎を出して豪快に笑う一方、やたらと低姿勢で握手を求めてくる様子は、一見ただのお調子者、またはやりすぎな営業マンの見本のようで、若干うさん臭げでさえあった。
いったい彼は何者なんだろう。そう思っていると、驚くべきことが判明した。なんでも彼は、サッカー東ティモール代表の監督候補だというのだ。にわかには信じられない気もしたが、詳しく聞くうちに、たしかにそうらしいことがわかってきた。
東ティモールにとってサッカーは、ひとつの〝希望〟と言えるものだった。
ちょっとした空き地があればどこでも、子どもたちがボールを蹴る姿がある。貧しくて苦しい生活も、ボールを追っているときだけは忘れられる。きっとこの国の人たちにとって、サッカーはそういう存在であるにちがいなかった。以前、若者たちの絵画コンテストが行われたとき、苦しい時代を乗り越えてきた多くの若者がそこに書く言葉として選んだのが「サッカーこそが人生だ」という文句だったとも聞いた。とすれば、ジョンはすなわち、この国のもっとも大きな希望を率いている男であるともいえるのだった。
ジョンは東ティモール第二の都市バウカウに生まれた。本名はモハマド・ニコ。いつ生まれたのかは彼自身も知らない。たぶん三十六歳ぐらいかな、とジョンは言う。ただ、インドネシア人に父親を殺されたのが一九七五年のことであり、その後、東ティモールを去ってインドネシアへ渡ったのが七九年だということははっきりしている。インドネシア占領時代のことである。
東ティモールよりは生きやすかったはずのインドネシアで選手としてサッカーをしたのち、指導者を志すようになった。この時代に彼は、サッカーのコーチングを学ぶとともに、英語も学んだ。また、結婚して子どもも授かった。
しかし二〇〇一年、インドネシアからの独立を決めて復興の真っ只中にあった東ティモールに戻ることを決意する。妻の親に「東ティモールには仕事はない。行くな」と反対されたが、ジョンは頷きはしなかった。国として独立を果たした故郷に、彼はどうしても帰りたかった。
そうして、暗黒の時代を終え希望に満ちた新しい時代を迎えようとしていた東ティモールに帰ってくると、ジョンはこの国のサッカーを育てたいという思いを強めた。それが彼にとって、新しい国づくりへの参加の仕方だったにちがいない。しかし東ティモールはまだ、サッカーのコーチでお金をもらうことを期待できるような状況にはなかった。
そこでジョンは、サッカー指導とともにインドネシアで学んだマッサージの技術によって、生計を立てる道を探った。「ジョン・スミス」という名のマッサージ師として、国連職員など、外国人の身体をほぐしていった。彼の客には、この国を独立に導いた英雄、グスマォン大統領もいたという。
そのジョンに、ぼくたちも一度マッサージをお願いしたが、ツボを押されたときにぼくは痛みで悲鳴を上げることになった。また、サナナ(=グスマォン大統領)は金を払ったことがないと、ジョンは軽くこぼしていた――というのは余談だが、とにかくジョンは、マッサージで生計を立てつつ、無給でサッカーのコーチを始めたのだった。
彼はメキメキとチームを強く育て上げた。そして自らのチームを、最近二回の国内大会の両方で優勝に導くという快挙を成し遂げたのだった。ジョンはまさに、東ティモールのサッカーをリードする存在になっていた。
幸運なことにぼくらは、そのジョンにとってとても大切な時期に彼と出会えたようだった。ジョンは興奮しながらこう言うのだ。
「五月十一日にはもうひとつの全国大会プレジデントカップの決勝戦を戦うことになっています。その試合に勝てば、ぼくが東ティモール代表チームの監督になることがほぼ決まるんです!」
つまり、三日後の試合に勝ち、プレジデントカップの優勝をつかめば、この年の十二月、東ティモールが臨む二度目の国際大会である東南アジアのタイガーカップにおいて、ジョンが代表チームを指揮することが確実になるというのだ。
「決勝戦をぜひ見に来てください! 絶対勝ちますから!」
宿のキッチンのテーブルで、彼はピンクの歯茎を輝かせながらそう言って大きく笑った。そしてジョンは、ぼくとモトコとヨハン、三人分の決勝戦のチケットを手配してくれたのだった。
独立二周年記念を九日後に控えた五月十一日の午後、ぼくらは三人でディリ市内にあるスタジアムに行った。スタジアムといっても空き地を低い壁で囲んだだけといった外観で、観客席も両サイドに少々あるだけのかなり簡素なつくりだった。
人がぱらぱらと集まり出したころ、ぼくらもスタジアムに入場し、階段状になった観客席の上の方に席をとった。フィールドを見渡すと、その向こうには、緩やかなカーブを描く緑の山が青空の中にくっきりと浮かび上がっている。
試合開始が近づくと客席はぎっしりと埋め尽くされた。客席だけではなく、フィールドが見渡せるあらゆる柱や建物の上も人の姿でいっぱいになり、いつしかサイドラインとエンドラインに沿ってぐるりと、分厚い人の壁ができていた。
プレジデントカップという名の通り、客席の中央にはグスマォン大統領の姿も見える。初めて見る国家元首の姿にぼくは、「おおー、本物だ!」と気持ちが高ぶった。大統領は写真で見た通りのワイルドなイケメン。しかも笑顔が優しげな彼は、女性にモテるだろうことは言うに及ばず、新しい国のリーダーとして十分なカリスマ性があることを直感的に感じさせた。
その大統領にマッサージ代を踏み倒されたとぼやくジョンが率いるのは、彼の故郷、バウカウ市のチームである。バウカウはディリより一二〇キロほど東にあるが、この日バウカウからは二五台のトラックが応援客を乗せてやってきていたという。
ジョンはそれだけの期待を背負ってこの試合に臨んでいた。そして、彼自身の将来を切り開くために、この国の人々に希望を与えるために、ジョンは自らのすべてを注ぎ込んだ選手たちをフィールドに送り込んだのである。
スタジアムは沸きに沸いた。試合のレベルは決して高いものではなかったが、一つひとつのプレーに、大きな歓声が上がり続ける。穴だらけの芝の上で、ボールは鈍い音を発しながら、ときに予測不能なバウンドをする。選手交代のとき、退出する選手が交代する選手にすね当てを渡す姿もあった。
あらゆるコンディションがよくないことは、この一試合を見ているだけでもよくわかった。しかし、選手にとっても観客にとっても、そんなことは全く関係ないようだった。選手は必死にボールを追い、観客は必死に選手たちを追った。客席では、くたびれたTシャツを着た子どもたちが懸命に観客に物を売って歩いていたが、その子たちも頻繁に足を休めて、試合を食い入るように見つめていた。
誰もがこの瞬間に情熱を注ぎ、楽しもうとしていた。この試合こそが、この国の人々がもっとも熱くなれるものであるにちがいなかった。
ジョンはこんなことも言っていた。
視察に訪れたFIFA(国際サッカー連盟)のある人物が、町の至るところでサッカーをする東ティモールの子どもたちを見ながら、「ここはブラジルみたいだ」と言ったという。八〇万人近い人口(当時)の半分以上が十五歳以下ともいわれる驚異的な若さを考えれば、この国の可能性はたしかに底知れないのかもしれなかった。
「十年、十五年後を見ていてください。そのときには日本とも対等な試合ができる国にしてみせますよ!」
ジョンは母国の可能性を信じて指導を続けてきた。そのために多くを捧げてきた。
国連の任務終了時期が近づいていたこのころ、国連関係者ら外国人が徐々に減るとともにマッサージの仕事も減り、ジョンの生活はますます厳しくなっていたが、それでも彼は、練習時に飲む水などを自分でなんとか搔き集めた金で買っていた。そんなジョンに、必要な金の一部を手渡しているのが、宿のヘンリーであることをぼくは後から知った。
午後五時半すぎ、試合も終わりに近づいたころ、スタジアムはさらに大きな歓声に包まれた。それは、ジョンたちの勝利を決定づけるシュートが決まった瞬間だった。
ヨハンもモトコもぼくも、思わず手を上げて
「うおーっ!」
と叫んだ。そして、サイドライン際にいるジョンを見た。黄色のシャツと赤のネクタイで鮮やかにキメていた彼は、喜びを大きくは表さず、あくまでも試合に集中していた。だが、彼の右手は、たしかに目頭を押さえていた。
笛が鳴った。ジョンが勝った。
その瞬間を見届けたほとんどの人が、駆けるようにしてフィールドに下りてくる。夕日の中で色を変えつつあった緑のフィールドは、さまざまな色の服を着た観客によって豊かに彩られ、選手と観客の間には垣根もなく、みなが一体になってジョンたちの勝利を祝っていた。
ぼくたちもフィールドに下りた。
「おめでとう!」
声をかけると、ジョンは、優勝カップを持った選手たちとともに満面の笑みでこっちを見た。そしてぼくがカメラを向けると、
「よし、みんな一緒に写ろう!」
と、選手を集め、さらに大きな笑顔を見せてくれた。選手の顔を見ると、みな純朴そうでさわやかな若者たちだった。そんな大勢の「弟」たちに囲まれた彼は、その瞬間、誰よりも幸せそうに見えた。
スタジアムには高い外壁はなく、外に立つ何本もの大きなヤシの木と、そのさらに後ろにそびえる山までが見渡せる。その景色と大勢の人間のすべてが、淡いオレンジ色の夕焼けの中に溶け込んだ表彰式の風景は、ぼくにとって、東ティモールの日々の中でももっとも忘れられないもののひとつとなった。
ぼくはこの日、この国の明るく前向きなエネルギーを、たしかに垣間見ることができたような気がした。
<『遊牧夫婦 はじまりの日々』(角川文庫)、p229-242に写真を追加>